5-b | 蛇のスカート   

5-b

そのまま長いこと黙っていると、羽根の冠を被った子供がドアを開けて駆け込んできた。頭には鷲の尾羽を並べ、緑色の紬をマントにしている。学芸会に出るインディアンの王子様に見えた。珍しげな顔でこちらを見つめている。母親に似た大きな目は純粋だった。

「翔太、浜で桂木さんの荷物運びをするのよ! たまには働きなさい!」

あの捻り鉢巻きのおやじは、桂木というのか。これが勉とケイコの子供、翔太だ。挨拶がてら、白々しく聞いてみる。「お子様は何歳になるのですか」

「九歳だわ。もっと早く産んだ子供がいるのよ。この子は面白いわよ。文明社会を知らないから、お菓子が欲しいとか言わないもの。ほっほ。あなたは文明生活の快楽を知っているから、そのうち、駄々を捏ね始めるのよ。ほっほ」

白黒の羽根を被った翔太は、遠慮して部屋の壁にぶつかった。本棚にある大小の瓶が、ちりんと高い音を立てた。翔太が出て行くと、「ほっほ」と艶美な笑いが部屋に響いた。

「いえ、駄々は捏ねません。僕は大層貧乏ですから贅沢をしていません。それに元々おかしいんです」自信たっぷりと言い返す。ケイコは微笑み、首をかしげた。

「そんな感じがするわねぇ。その暗~い雰囲気。何か似ているもの。五年前のあの人と」

ケイコに滲む眼差しで見つめられ、眩しかった。

「挙げ句の果てにはあの人の二の前になるのかもね」

「勉さんは一体どんな人だったんですか」

「義兄さんから聞いていないの?彼、ちょっと名の知れた劇作家だったのよ。まだ若いのに、劇団まで結成して演劇指導していたのよ。花に蝶が集まるように人間は自然を求めているとか、今よりは遥かにロマンチックだったわね」

「そんなこと全然聞いていませんよ。初耳ですね」

大げさにリアクションすると、ケイコは話を続けた。

「丁度その頃ね、私、医学部の学生だったの。親が病院を経営していて、その跡を継ぐ予定だったのよ。そんな中、偶然、張り紙を見かけたの。『精霊が呼んでいる』ってポスター。暇つぶしに劇を見に行ったら、仮面被って派手な衣装で踊っていたのよ。すぐにファンになったわ。あの人は、頭でっかちではないところが良かったのよ。ストレスの解消のつもりで彼の劇団に入ったの。ハードな医師の仕事をしながら、舞台で踊っていたのよ。若かったから体が持ったのよね」そういう顔つきと言葉遣いに知性が垣間見られた。

「本当に医者だったのですか。何でまた辞められたのですか」

「気付いたのよ。私の人生は忙しいだけで、全然充実していないって。劇団員と一緒にいて、価値観が変わったのね。石垣島や宮古島に行って、海で泳いだり、歌って踊ったりしていると、信じられないほどパワーがみなぎるの。それで休日が終わって東京に戻ると、ガクンと落ちるのよ。患者を診るのがだんだん辛気臭くなってきたの。文明人は生命力が弱いのかしら、と思うようになったわ。未開人が罹らない病気に、すぐに負けてしまって病院や薬に頼る。病院がなかったら、病気に罹らないように努力するのではないかしら」

「そうですかねぇ。最後の最後に頼るのが、医者じゃないですか」

ケイコは突き放すような冷たい眼差しで、

「医者は神じゃないわ。私たちは必ず死ぬのよ。だから私たちは覚悟すべき。今を生きること。後悔しない生き方をすること。私はね、踊るために生きてるのよ」

ケイコは目を輝かせて押し付けるように語った。尻込みしながら、「ただ、国民の義務というか、世間体がありますからねぇ」

ケイコはきっと睨んで一喝した。「自分の好きなように生きて、何が悪いのよ!」

「それはそうですが、こんな場所で、こんな生活していたら、槍玉に挙げられませんか」

「生きている世界が違うんだから、仕方がないじゃないの!」

夕日は沈み、蝋燭だけが光っていた。太った蚊が火炙りになるのを志し、炎に近づく。湿度が高くて汗が出る。自由に踊って暮らす生活。余命一年と宣告されれば別だか。

「確かに、そういう考え方というか、人生もあるかもしれません。あのぅ、僕も仲間に加えて頂けませんか」

「それはダメ! ここはあなたが考えているほど楽じゃないし、第一、これから何が起こるか分からないのよ」 

きっぱりと断ったケイコは目で脅した。食い下がっても無駄だろうと直感した。手紙を渡して即座に仲間入り、という目論見は外れた。何か手がないものかと、麻黄、甘草とラベルのあるビンの置かれた部屋を見回しながら、

「それにしましても、こんな所に病院を作っても、あまり意味がないような気がしますが。あっ、『映画』で使用するわけですか」

しらじらしく強調すると、ケイコは懐かしそうな目で笑った。「あれは事実上、廃止になったの。建前では、今でも映画やってることになっているわ。もっとも立ち寄る漁船もないけれど」

「僕はてっきり、リアリティを増すために、こんな生活をしているのかと思いましたよ」

「せっかく来たのだから、今晩だけは一緒に踊りましょうか」

ケイコは立ち上がり、棚から白い塊を一掴み取り出した。胡麻すり器に入れ、テーブルの上でごりごりと擦り始める。一体何の薬草だろうか、好奇心が膨らむ。ケイコは水差しから湯飲みに入れようとする。

「これを飲んで」

「何ですか」

「ハブの骨の粉末」

「毒蛇ですか!」

「身体が弱った時や、踊る時、ハブの力を貰うのよ」

「そういえば、あの船乗りの人も、今日は踊るぞと張り切っていましたよ」

「桂木さんね。今夜は新月だから、月初めの祭りがあるの」

今どき陰暦など使っているのか。薬や石像からして、ハブがこの島の神様なのかもしれない。俺は無神論に近かったが、今度こそ仲間入りしようと嘘をつく。

「実はですね、僕もインディアン同様、精霊の存在を信じているんです。やっぱり精霊は存在しますよねぇ」

口調があまりに白々しかったせいか、ケイコは目を細めた。「うそ臭いわね」

思わず首を振る。

「滅相もありません。目には見えませんが、自分には良く分かるんです」

「どういう風に?」

「何かしら、物質の原理を超えたような、原子が語りかけてくるような……」

でっち上げると、ケイコは両手を広げ、

「頭で分かろうとするのではなく、この体全体で感じるのよ」

束になった髪が跳ね、ふらっとイメージが伝わってきた。ケイコの傍には土人が叩くような片面太鼓が置いてある。

「それでインディアンは踊るわけですか」

的を射たのかケイコは微笑んだ。コップに粉末を入れ、水を注いでさじでかき混ぜる。一つを客の前に置き、自分のを一気に飲み干した。

「踊りはもともと医術。昔はきっと患者を踊らせて治癒したのよ」

「踊って病気が治るもんですかね」

「肉と霊は繋がっているから、昔の名医は病気を治すために、宗教的な洗脳をしたはずよ」

「実は僕も体調不良ですが、治りますか」

「確かに顔色がよくないわね。何の病気?」

「過喚起症候群です」

「パニックは踊れば治るわ。それ飲んで踊ってみなさい」

「はあ……」 躊躇っていると、

「踊りはね、昔は大地の呼吸であると考えられていたわ。大地は生きていたの。でも今は単なる物質。人間だってそうよ。今の医療システムでは、製薬、医療機器のメーカーや病院が、生身の体を解体していくの。人間はただの機械、物質なのよ。だから強烈な反動がきたのね。人間はただの物質ではないのよ、精神とか魂がくっついた物質なのよってね。私はね、映画ではアメリカ先住民の巫女役のはずだった。そのシナリオに、素敵な詩があったのよね。ページをめくった瞬間に心を打ったわ。ちょっと教えてあげましょうか」

ケイコはすっかり暗くなった窓に視線を投げた。物思いに耽っている。

ゆっくりと甘美な声で詩を口ずさみ始めた。 

世界全体に神が散らばっている。世界全体は神で包まれている。太陽のように大きな天体から、ウイルスのような小さなものまで。大きい神が小さい神を創造し、小さい神が大きい神へ感謝する。人間が神を祝福することで、世界は一体化する。どうやって神に感謝しようか。お供えがいいだろうか。お祭りがいいだろうか。芸術がいいだろうか。我らの先祖は、大きな石で造形物を作りました。蛇のスカートをはいた、大地の女神コアトリクエ。彼らは祈りながら踊った、大地の踊りを。

ケイコは憑かれた面持ちで、出口である片山の方へ歩み寄ってきた。腰から下に何か変な物を沢山ぶら下げていた。炎がその姿を炙り出す。

愕然とし、目を大きく凝らす。ケイコは蛇の絡まったスカートをはいていた。緑に黄色の混じったハブの皮を丹念に絡ませてスカートにしている。それはケイコの動きに応じ、小刻みに震え踊っていた。

そのまま側を通り過ぎ、医務室のドアを開けて外に出た。俺はハブの薬を一気飲みして追った。日は沈み、家から蝋燭が漏れているだけ。あの石像は、どう見てもハブの化け物だが、大地の女神コアトリクエというらしい。ケイコは映画では巫女役だったようだ。

女酋長は夢遊病者のようにテントの家から出ると、そのまま真直ぐ歩く。蛇の石像と擦れ違った。そのまま踊り場の家に上がる。闇だった舞台の四隅がオレンジ色に点った。姿が浮かび上がったかと思うと、ケイコは鈴を鳴らしながら踊り始めた。

生暖かい夜風に乗って、床板の軋む音が伝わってくる。頭の羽根が飛び、ゆらゆらと舞っている。憑かれた女が触角を揺らし、単独で盛んに飛び跳ねている。

唖然と立っていると、赤羽の男が家から飛び出てきた。腰にジャンベを当て、土人のように両手でぱたぱたと叩き始める。魂を何処か遠くに連れて行く、痺れるリズムを夕闇に轟かせている。アワアワする声が低く、高く、飛び交う。笛やマラカスの音が加わった。羽飾りを振りかざし、どっと現れ、ケイコの応援に行く。

怪獣の像の側に、焚き木が次々と投げられた。赤羽の男は舞台に上がり、酋長の傍らで精力的に叩いていた。ケイコは両手を高く突き上げ、腰をくねらせ、ワカメのようにゆらゆら踊る。小さく速かった太鼓の音は徐々にスピードが落ち、迫力を増した。耳を塞ぎたくなるくらい強烈な一打を繰り出す。

石像の傍で、赤い炎まで風に吹かれて妖しく踊り始める。「踊り場・劇場」の前で皆が飛び跳ねている。両手で何かを持ち上げる格好をし、体を小刻みに震わせている。

怖れていたことが遂に始まってしまった。目立たないよう、家の影に隠れ、様子を観察する。舞台に三人立っている。鈴を持ったケイコが頭と腰の蛇を踊らせており、右隣は赤羽の男がアフリカ太鼓を叩いている。ケイコの左隣では、眼鏡をかけたスキンヘッドの青羽の男がラッパを吹いていた。残りは踊り場の前で乱舞している。翔太、紫羽の男、白羽の男、黄色い紬を着た女が五人、「ほーっ、ほーっ」と喚き声を上げている。

蚊に食われた腕をかきむしりながら眺める。炎に焙られた羽飾りと、奇怪な踊りを念入に観察する。これも取材用のメモ帳に書き込むべきだろう。統一性のない手足の動きからして、型にはまった踊りではないが、音楽からはアフリカやキューバのダンスが彷彿された。生れたばかりの赤子のようにばたばた暴れて跳んでいる。「ほーほっほっほ」と腹の底から魂を絞り出している。

頬を叩いて気を静める。俺はあくまでルポライター。飲み込まれてはいけない。舞台で乾いた音を鳴らしている赤羽の男が際立った。数えると、舞台に三人、下には翔太を含め、男三人、女五人。一一人しかいない。これでルリカケス族の全員か。数に入れなかったが、漁船の男も混じって踊っている。白いTシャツ一枚で鉢巻きに鳥の羽を何枚も挟んでいた。

炎の照らす地面には、黒い人影が、ゆらゆら踊っていた。縦に長くなり、横に太くなる。これで病気が治るのか。ただ勝手な妄想で感情を高め、飛び跳ねているだけではないか。

憐れんで見ていると、ルリカケス族の状況が少し変わって来た。踊る人々の声が徐々に小さくなる。遂に叫び疲れたのかと思うと、ケイコが張り裂ける悲鳴を上げた。

「ルリカケスの民よ~~、万物の精霊を揺り起こそうぞぉ~~、せ~い~れ~~、せいれ、せいれ、せいれ、せ~い~れ~~、せいれ、せいれ、せいれ……」

酋長の号令に従い、体を揺すりながらの大合唱が始まった。

俺の後頭部に稲妻が落ちた。この凄まじい精霊音頭に、防壁は亀裂が入るほどの衝撃を受けた。圧倒され、立ち上がって身を乗出さずにはいられなかった。何が始まるのか。不安と興味が全身を駆け巡る。髪の毛が逆立つほどパワフルだ。「精霊」と一斉に絶叫した後、「せいれ、せいれ、せいれ」と三拍子で渾身の力を込めて地団太を踏む。全員が一丸となって『精霊』というチームの応援団になって弾けている。十二人の生命力が闇夜に発散され、本当に精霊が霜になって舞い下りてくるのではないかと錯覚した。

自分自身も引っ張り出されようとしているのを感じた。踊る人たちは強力な磁場を作っており、孤立した俺を引き摺り込もうとしている。空気や熱、光を通して侵入してくる磁力は、防壁が壊れないなら、丸ごと持っていこうとしている。

体が熱くなってくる。亀裂の入った壁がびしびしと壊れていく。太鼓の音が魂を沸騰させる。ルポライターの役目に必要な、クールでドライな意識が吹っ飛んでいく。自然と声が出た。精霊の呪文をなぞる。勝手に足が地団太している。公園の時以来のこの感触。沸き上がってくる衝動の強さはあの時とは比較にならない。

俺はTシャツ姿になって裸足で芝生に駆けて行った。