女王様のブログ -2ページ目

女王様のブログ

ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。

これから日本を支える若者達である受験生に対して,

内田樹先生のメッセージがとても良かった。

「内田樹の研究室」の

受験生のみなさんへ

の中に,私自身も10年以上前から危惧していることが書かれている。

是非,高校生にも読んで貰いたい。

 

Foreign Affairs Magazine の2016年10月号に

日本の大学の学術的発進力の低下や、GDPに占める大学教育への支出や、研究の国際的評価の低下などをデータに基づいて記述した上で、日本の大学教育の過去30年間の試みは「全面的な失敗」だったと結論づけたことを述べられ,
記事は日本の大学に著しく欠けているものとして「批評的思考」「イノベーション」「グローバルマインド」を挙げていたようで,

批評的思考や創造性を育てる手立てが日本の学校教育には欠けていることは日本人自身も実感しているけれども、「グローバルマインド」が欠けている点に関しては,このように言われている。

1989年の学習指導要領以来、日本の中学高校では「とにかく英語が話せるようにする」ということを最優先課題に掲げて「改革病」と揶揄されるほど次々とプログラムを変えては「グローバル人材育成」に励んできたはずだから」。でも、30年にわたるこの努力の結果、日本人は世界各地の人々とともに協働する意欲、探求心、学ぶことへの謙虚さ(記事によれば、これが「グローバルマインド」の定義だそうです)を欠いているという厳しい評価を受けることになってしまったと。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

内田先生のブログは,アメリカのスタンフォード大学が保管・記録する中の1つであることは,あまり知られていないのですが(もし間違えだったら誰か教えて下さい),

先生がブログで発信していることは,

少なくともアメリカのインテリジェンス達には伝わっていて,

本当に日本を心配している海外の(アメリカを心配しているのかもしれませんが)人々は,先生の発言に注目している。

日本国内では先生のことは素直にすごいと評価しない人が多いし,メディアも大々的に報じないからである。若い世代にもそういう人(先生に批判的な人)がいると,講演会の中で先生自らが述べておられた。

若者(三十代とかも含め)達は,先生の言動に注目が集まることの嫉妬からそのように述べるのだと私は思う。

「アメリカの良心」がチョムスキーなら,「日本の良心」内田樹なのかもしれないのだ。

実際,私のまわりには先生の書く文章のファンが多い。

内田先生はなかなか言葉にして表現できないことを,結構,的を射てさらりと述べられてしまう。

そうそう,そのことが言いたかったのですよっと多くの人が感じているようなことを。

 

私が心配なのは,先生みたいなことができる(述べられる)後続の世代が(私も含め),

ことごとく表現力を奪われていることなのだと思う。表現力が無いと言ってもいい,致命的に。

つまり教育の失敗の始まりがすでに何十年も前にあったと,

こちらの文章には書かれていないけど,

そういうことを暗に言われているのように思う。

 

では一体どうすれば良かったのか,これからどうすれば良いのか。

私自身はとても危機感を感じている。だから,一時期のみ蟹工船から下りようかと思ったのだ。

結局,そういう機会を私達に与えないことも,グローバルマインドに欠けているのではないだろうか。1つ前のブログに書いた私の苦い実経験から。

 

世の中にはなんと多くの秘密が詰まっていることでしょう!

っといつも感じながら日々送っているわたくしですが,

卒業式を終え,ほっとしている間もなく次々と仕事の波が訪れ今に至っているところです。

 

おんにゃのこ軍団のいる今の職場は100年近い伝統のある進学校で,東京大学の教授も輩出しているところなのですが,ご多聞に漏れず地方の学校は少子化の影響をもろに受けており・・・以下同文です。

 

そんな中でも,大学進学を考えている生徒達はほぼ100%国公立大学を第一希望とするため,学力をつけさせねばならず我々も相当頑張ってます。

 

ですから,

僕たちしかいないところからおんにゃの子軍団に転勤してきて以来,ずっと蟹工船から下りることができず今に至ります(二度目)。

 

蟹工船から下りてブラッシュアップするため(本音は言いたいことを言って,したいことをして,助けたい人を助けたかったと思い上がり,お手伝いしたいことをお手伝いしたかっただけ),

日本の最高峰の大学の言語関係の研究室に入るため,

昨年暮れから,仲間と蟹を捕りながらも,その仲間達とボスには見つからないように皆が寝静まってから,ろうそくの灯火で勉強をし始め,メンサがいる現役の学生に混じり無謀な戦いに挑みました。

学生時代少しかじったアダムスミスの「道徳感情論」が出たときは,もしかしてこれは運命なのかしら・・・などと勝手に思い込み期待した私が馬鹿でした。

どんなに理不尽でつらくても,この年になって人前で泣いたら,周囲はしらけて 慰めてもらえるはずもなく,そういうことは分かっているのであえて平静を装わねばならず,十代の若者を初めて羨ましいと思いました。

一度繋がれた鎖を外すことは不可能と突きつけられ,

散財して気を紛らわすことにしました。

とりあえず,今月新車からいきます!

 

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

 

2月25日は全国的には国公立大学の前期試験にあたり,この日に催しを計画する方々は,大学受験を私立だけのものだとお思いの方が多い。

当然,私共進学校の者は身動きがとれません。

それと,

高校3年生担当は,前期試験までの二次対策が済んでも中期・後期の生徒達のために指導をせねばならず,エンドレスです。

卒業させた後も,担任をしていれば様々な記録を手で書いて残さねばならず,

4人組 3月10日(土)@長崎大学は,その記録の締め切りが迫っていたため,

せっかくこちらにお越しになられたにも関わらず,参加できませんでした。

残念。(今思えば大津先生に愚痴っていたかもしれないので行けなくて正解だったのかもしれません)

 

直接お会いしてまたお話ししたいと思う心を余所に,

誰もいない英語科職員室でひたすら万年筆を走らせる私を想像して下さい。

人生は辛く,暗く,そして酷です。

十代の乙女なら泣いたら周囲も心配して慰めてくれるでしょうね。

 

勇気をだして行動したわたしはわたしを褒めたいです。

 

ゲーテの言葉に,

『財産を失うこと それはまた働いて取り戻せばよい』

『名誉を失うこと それは名誉を挽回すれば世の人々は見直してくれるだろう』

『勇気を失うことーこれはすべてを失うことだ。それならいっそのこと、お前は、生まれなかった方がよかったのだ』

 

というものがあるのだけれど,

ゲーテ様からすると私は生まれて良かった人間。

わたしはわたしを誇りに思う。誰が見ていなくても,誰も知らなくても。

毎年1月にはブログをアップさせている関係で,

お正月が過ぎてしまいましたが,載せておきたいことができたので,

ここに書き留めておきます。

まずは,改めて,

2018年が明けましておめでとうございますと共に,

一部のマニアな皆様,本年もこちらのブログをよろしくお願いします。

 

さて,

高校3年生を担任している関係で,年末年始もほぼ休み無く働いている私ですが,

話題の書籍が届き,読んでみると予想以上にとても良かったので,

ブログを書きは,優先順位にすらはいらない圏外のことなのですが(公私共に大事なイベントがあるため),自身の仕事上に関することでもあり,

肩を押されている感じで,元気が出たので載せます。

 

 

先日の英語の新年会でも,

外部試験導入になった場合の我々の指導法についての話になったのですが,

学習指導要領に真面目に忠実になろうとすればするほど,子供達の英語力は下がり続けてしまうことは明白なので,

変え続けることの弊害より,実際に力がつけられた教授法を中心に据え,変えない安定の方が実際伸びるし力がつくのでは?というようなことを,同僚に伝えた。四六時中,外国語学習については,第二言語習得に関する研究をしている専門的な研究者ですらよくわからないのに,

実際,車輪となって現場を動かさねばならない我々にとって,何が最善かなどということは分かるはずもなく,様々現場で試行錯誤して害を与えることのほうがむしろ時間の無駄。

楽しい英会話の授業が,必ずしも力が付くとは限らないと経験上常々思っていた私は,阿部先生のこちらの書籍を通して,改めて確信を持った次第。

そして,先生の述べられた内容がすべてしっくりきて一度お会いしたいなあと思うようになりました。

 

昨年末,研究授業があり,授業研究の際に多くの先生が参加せず帰られる中,唯一お越し下さっていた本年度新採の(期限付きですでに何年かされている)先生が,自身の授業に関して助言する指導主事や指導教諭から厳しい指摘を受けて,「あなたの授業は何が目的なのか。それで本当のコミュニケーション能力が培われるのか。」などと言われ,様々な研究授業を見てこいと言われたので,私の学校に来たということを,涙ながらに述べられていた。現場では,威圧的でとんでもないことが起こってますよ。

 

時流に乗った人達が大義名分を権威をもって振りかざして,威圧的にゆがんだやり方で現場を支配しようとしていることは,誰も分からない事実です。全部言ってしまいたい衝動に駆られます。

流れを変えうるきっかけをつかめるなら,私ものりたい。阿部先生には一度お会いしたいと思うと共に,大津先生に続いて力を発揮していただきたい。弱い立場の人々を守るために。

 

英語教育関係者のみならず政策を実際動かしている文部科学省の方々に是非読んでいただきたいし,読むべきだと思う。

一つ前の記事に,

高校生が参考にする本の著者は,

私の中では野矢茂樹先生だと思ったのでそのように述べましたが,

実際国語科の先生にお聞きしますと,

進学校で,

小論文指導に役立てるために買わせているのは,

論述など,圧倒的に中山元先生だということが判明いたしました。

 

 

 

上記の本は,高校生の日常会話の中にはあまり出てこないような語や概念の説明が載っており,とても役に立ちます。

しかし,知識を身につけるにはこの書は参考になりますが,

実際,良い文章を書くには別に参考となるものが必要です。

文の書き方に関しては,やっぱり野矢茂樹先生です,

私が思うに。

 

野矢茂樹先生の,

社会の教科書で有名な山川書籍から出ている「大人のための国語ゼミ」っという本は,

高校生が読んでもわかりやすく,

論理的に文章を組み立てていく,

読み手に分かるような言葉の使い方を,

なじみのある文章を題材に演習問題にして,

実践を積むことで国語力を身につけたい大人をターゲットにした本。

国語力が今一な大人向けの本ですが,そういう大人にならないように中高生も手にすべきだ。

この書を通して,わたしは,

野矢先生のお人柄を感じた。前書きから良いところだらけなのだけど,

特に私がいいなぁーと思ったのは,

*以下本書より抜粋

「相手のことを考える」~本当に分かって貰おうとして話していますか?~

会話で大事なのは相互理解でなくリズム

相手にしっかり伝わる話し方や書き方でなければならない

池上彰はなぜニュース解説で定評があるのかの理由

自身の伝えたいことがなかなか伝わらないということに悩むことが自身を鍛える

国語力とは何か?

国語力とは,相手のことを考え,分かってもらえるような言葉に言い換えたり説明を補ったりする力

相手のことを考えて,分かって貰おうとすることが国語力を鍛える。

わかりやすく説明するという国語力には「負」と「正」のスパイラルがある。

負のスパイラル

国語力がない→説明するのが面倒→相手のことを考えなくなる→相手のことを考えないから国語力も向上しない。

正のスパイラル

相手のことを考える+国語力が向上する→相手のことがもっと考えやすくなる→さらに国語力が向上する

負のスパイラルを抜け出し,正のスパイラルへと向かって欲しい。

どうです?

国語力とは何か?ということをわかりやすく丁寧に説明して下さってますよね。

不思議と,先生の言葉の中には一つも脅迫めいた表現がないのです。

言語力・論理力・国語力をつけよ!と自身が言語力が何かもよく分からない人が,

多分,脅迫めいた表現を使うのだと思う。

本当に国語力(言語力)があれば,

相手のことを考えた表現になるから。

言語教師のお悩み解決のキーを,

野矢先生が持っているのではないかと,

私のセンサーが動いてる。

今は,野矢先生に興味を持つに至ってる私。

 


楽しみながら学ぶ事が出来る,中高生にも読んで貰いたい良書。

 この4年の間,

アクセスランキング上位に必ず入っているのが,

「言語技術の有効性」三森ゆりかさんだ。

2013年の12月師走近くに書かれたこの記事の人気は,ダントツで一番。

 

それで,この記事の読者層を分析してみた。

1.私に関心のある人 

  *私の実際の生徒ではない人達,生徒であれば別の記事に反応するから

2.高校の教育現場に関心のある人

3.幅をきかせている英語に,なんらかの対処したい人

4.母語である日本語の指導に関して関心のある人

5.三森ゆりかさんに興味関心のある人

6.言語技術で一儲けしたい人

7.言語技術って何かと思い検索した人

 

上記の記事はこの三年半の間,1万アクセスはあった。

なので,多分時代を問わず,世間の誰かしらに需要があるものと思われる。

 

言葉の論理性については,

高校生が読むものとして一般的なのが,

野矢茂樹先生の本なのだけど,(追記:国語科の先生にお聞きしたら,中山元さんということでした)

この手の言語系のものは今一広まらないという現象が見られて,

それは何を示唆しているのかと考えて見れば,

世間一般の人々にとって,

外国語以外の言葉,

つまり母語は空気のようなもので,

あえてお金をかけて身につけるようなものでないという意識の表れと,

大方の人間は,実際あまり言葉で悩んでないということだ。

 

言葉自体に関心が集まらない,未発達のままということは,

物事の核心的な部分の本質を突いた同一視がないということで,

またそれは,国民の成熟さがないままに国が成熟し,

私利私欲のない善意の誰かに身をゆだねれば,

誰もがなんとか生き延びれてきたという事実があるからなのだと思う。

 

これからの時代が,どの方向に行くにせよ,今までのようにはいかない。

今までのようにしていたら,馬鹿を見るのは己自身である。

悪意のある,もしくは思慮の欠いた不確かな人間の不確かな思想の,不確かな言葉を,

善意の,確かな人間の確かな思想の,確かな言葉を,

どのように見極めていくかの方が,実際我々の生死に関わる問題で,

そのようなHow to本が一世を風靡する時代はもしかしたらもう来ないのかもしれないということだけは,

なんとなく分かっている。

 

いずれにしてもそのセンサーは簡単に説明の付かないものだから,

自身の中で,正しいことを言ってそうな感じがする人物の言葉を採用しがちである。

というのは,

私はそれでどうにか生き延びているからだ。