英語教育学なんかそもそも存在しない | 女王様のブログ

女王様のブログ

ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。

私が,僕たちの学校に赴任してから,

自分が教えている教科に対して見つめ直す機会を得て,

公私共にいろいろな出来事があり,

言葉の教育とは,なんぞ?という根幹部分にさしかかった際に,

あっちこっち出かけて聞いたシンポやフォーラムや勉強会の後の懇親会での,

講師となった著名な先生方のお酒の席でのぼやきから,

私が感じ取っていたものは,

そもそも,英語教育学が学問として成り立たないうさんくさい分野だったということだ。

 

私自身,そういう考え自体があるっていうことは,

教職について10年以上経って知った(凡人です)。

自分が学部時代に,英語教育に関しては教職課程をとる上で必要な単位の一部でしかない,英文学出身の私にとっては,疑問に思うこと自体がなかった。

 

無かった上に,

そういう,「そもそも論」っていうのは,

その時代の私自身の世代とか,そこら付近の私が接した民族の構造自体において,あまり無かった。

今思えば,「現存するものは全て価値あり,無駄なものなし」っていう思想に染まりきっていたのだと思う。まだバブル全盛期で,きっと世の中が狂っていたというのもある。

 

しかし,高校生にして英語教師を目指し(私は違うけど),相当な昔から,自ら望んで英語教育学を志して学んでいる学生は,もしかしたらこういう疑問を持っているし,持っていたのではないかと思う。

それは,英語教育の哲学的探求というブログをされている先生の学生さんの書いた内容を読んで感じる。私が10年かかって分かったことを,彼は学部で感じている。

10年早く感じ取っていると言うことは,

彼の学んでいる方向と感覚が現場にとって必要だということだ。

 

彼の英語教育学に関する違和感は,現場の教員も大なり小なり感じていることで,

それは突き詰めれば,「はっきりって英語教育学って学問じゃないのだよ,君!」ということから発しているもの。私は彼がとても優秀な人材だと思ってる。

 

実は,昨年,とあることで大学から英語教育学っていうものが無くなっていくのではないかという兆候を見つけた。つまり,私が生きている間に学部の編成,統合がなされ,すなわち,学問分野のあり方についての議論が活発に行われて,まがいものの学問が消えていくような気がしてきたのだ。

 

ある地方の国公立の英語教育学を教える50代の先生(元現場)が,

大学で学生に教えることが苦痛になったのか,それとも学部内で何かがあったのかは分からないのだが,昨年,高校の平成29年度教員採用試験を受けている方に会ったのだ。

中高の英語教員が大学の先生になるという話はよく聞いていたし,

実際そういう方が県の会に講師として呼ばれて,内容のない話をする場面をいっぱい見てきたので(ただ本人が,自身に箔をつけるための地方巡業のため,私のような人達(一人でない)には我慢大会のような会ですが),そういう方が,大学に居づらくなったのかよくわかりませんが,中高の教育現場に戻りたいと考え,自らが教鞭を執って教えてきた生徒達と共に,採用試験を受けるという,ありえないような屈辱を受けていることに驚きを感じえなかったわけです。

 

アガザクリスティーが好きな私の推理によると,

大学内部で,英語教育学者達の立ち位置が相当危ういことになっている感じております。

日本国全体が縮小傾向にあり,いい加減に,いや あまり深く考えない状況でも,やっていけた時代(それを今と比較して狂気の時代とします)には,存在できたものが,

存在できなくなってきていることを意味していると感じている。

 

ルーマンは、理論の淘汰は真理によって行われるとしているのだけれども,

その真理とは何かと言えば,客観性、実証性、論理性、反証可能性において体系化されていることなのであれば,

たかだか(と言っては申し訳ないし,彼のように感じ取れない鈍感な若者もいるから),20歳そこらの若者に論破されてしまう,正体がばれてしまうようなものは,学問とは言えないし,

そういうところに,優秀な若者の英知を無駄に使わせる罪深いことを,世間の人はもちろん大の大人,知識人と言われる大学の教授陣も全然気付かず,放置してきたのはまずいと思う。

心ある良心的な,これからの若者に対して,本当に幸せな将来を生きていって欲しいと願うのならば,きちんと伝えるべきであり,それが本当の慈悲だと思う。

 

真理を追究する大学の学びの場を確保したいという使命感に燃えた大学の先生方が,きっとそこは成し遂げて下さると思うし,先ほどの例(50代現場出戻り)に関しても,その結果がいよいよ現れてきたのだと感じてる,昨年からの私。

 

少子化で超高齢化社会の日本が,定年の年齢を65歳まで引き上げたことで,

60歳で定年退職された校長先生が,私達と同じ下々の仕事をせねばならない構造となり,

生徒も含め私達下々の者も大変,ご本人も大変。皆大変な現場に,大学から下りてきて一緒にやろうよーっていうあれに,どういう対応をしたら良いか戸惑ってしまうのは,きっと当の本人には分かりますまい。