言語技術の有効性 三森ゆりかさんから学んで感じたこと | 女王様のブログ

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ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。


世界の言語教育は以下のように解決までのプロセスを大事にする。


問題⇒プロセス⇒解決


一方日本は,


問題⇒正解

といった一つの答えしか要求しないような,また解決したとしてもその過程をすっとばしたような言語教育しか受けていないこととなる。


小学校から高校における母語教育の時間数も,

先進国で一番少ないのが日本。

先進国で,どの教科よりも時間数が多いのは,母語(国語)の時間である。


平均してどの校種も5時間から6時間ある。

一方日本で多いのは,高校では英語。一般的に進学校では,外国語である英語が一番多い。日本人が自分の考えを母語で表現することを阻害することにもなっている。そもそも,自分自身の意見を持つことをタブーとしている傾向があることが要因ではないかと私は考えている。


言語技術とは


知性を形成するもの(これはヴィゴツキーの言語と思考にも通じる)。

知性を記述し,疑問を持つことによって質問し,ある思考に至るまでのプロセスを形成し,音声や文字で外界に発することで意見を交換し,そして初めて他人だけでなく自分の考え方が見えてくるということの一連のことではないかと,

高校一年生が述べたらしい。(この高校生の知性は素晴らしいです,未来のヴィゴツキーかもしれない。)


この言語技術を学ぶことは外国語にも長ける方法だと私は考えた。


イエール大学での海外から来る学生に求める英語力とは,


① Introducing the Paragraph(パラグラフ・ライティング)

② Narrating(物語)

③ Describing(描写・説明)

④ Analyzing Reasons(Causes)(理由の分析)

⑤ Analyzing Prpcesses(過程の分析)

⑥ Comparing and Contrasting(比較と対照)

⑦ Classifing (分類)

⑧ Evaluating Effects(結果・効果の評価)


この英語力,いやいや,日本語力を身に付けている人たちって,大卒の人間でもほんの一握りでしょうね。

母語ですらできないことを外国語である英語で出来るわけがない。

母語での言語技術向上が,外国語を学んでいくうえでの大事なプロセスであるのに,そこをすっとばして,英語力を要求しているのが,今の日本の英語教育だと私は感じている。

しっかりと確実に母語で語れないのに,外国で出来るなんて考えること自体が危険であることが容易にわかる。


結局,単語でしか会話が成り立たないような人たちに,外国語を学ばせたって,悲惨な結果しかならないということだと私は思う。

私はあなたの意見とは違う,それはこうこうこういう理由だからであると,理由を明確にすること。背景が同じ人間ばかりが同じ空間に居合わせているわけではないということ。以心伝心は良いことばかりだけでなく,仲間内だけしか通じない閉鎖的なものになりうること。日本人の以心伝心は,日本語が論理的に発達することを妨げている。今まで以上に海外からの人々との交流が増え,国際結婚も増えれば,違う背景の人間が隣近所に住むことになるのだから,きちんと説明をしなければならない。どうしてそのようにするのが,何が根拠なのかどのようにするのかということの説明が要求されるということではないだろうか。


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生徒がきちんと文章でものが言えるようにする。

問答の内容を記述させる。

とっさにきちんと答える能力も身につけさせる。(誤解を解く)


言語技術を向上させるにはディベートが向いている。立場がどちらかをはっきりし,結論を先に持ってくる。それは,フランスの国旗を知らない人に言葉でどのような国旗かを説明する際の方法に合致する。形から模様そして色へと,外側から内側へ説明すること。言語を使った説明もすべて同じ過程を踏む。


最初っから結論を先延ばしにして,相手の顔色をうかがいながら物事を述べる,説明をする方法は,結局何が言いたいのかもわからない。その言葉を受け取った人々が勝手に想像して,10人いれば10人の結論を勝手に生み出し,結局誰一人正しく理解させることができず,誤解につながる。


先日も単語でしか答えを述べようとしなかった生徒に対して,文章で他人に分かりやすく,できるだけ誤解を受けないように説明しなさいと指示したところだ。


しかし,こういう基本的なところを今まで野放しにしているということは,

常々感じていることなのだけれども,他人と議論にならない,できない民族なのではないだろうか。

議論にならないということは,危ない思考を持った人が独善的に支配し振舞える土壌があるとはいえまいか?(この飛躍が分からない人はご連絡ください。自分だけが分かっているのかもしれないので。)

理不尽な扱いを受けた経験のある人なら,きっとなんとなく想像できそうですよね。


日本人が議論する形態はたいていの場合真に議論になっていなく,

自分とは違う意見を持つ人がいたら,自分自身を否定されているように感じ,むしろそれを排除する傾向がある。そもそも全く自分と同じ意見の人などいないということには重点をおいていない。つまり,一つの答えしか最初から求めていない非寛容の民族とは言えまいか。


新聞や雑誌もネットからの様々な情報も,そのまま受け入れるのではなく自分の中で咀嚼して自分の頭でよく考えて採用すること。

危険な考えを持った人に近づかないよう五感を鋭くもつこと。

自分とは違う考えを持つ人に対して論理的に理性的に距離を置くことができるようになれば,人はもっと生きやすくなるのではないだろうか。

三鷹の女子高校生の件であっても,自分と意見を異にする人に対して,身勝手に他人の人生をコントロールできると思いあがった被告の殺人事件だった。


部分的には同じように感じるだけで,自分と全く同じ意見を持つ人など,一人としていないということが背景にあれば,人々はもっと寛容になれるのではないだろうか。


Not always same.

部分否定は寛容につながる

生まれながらのどうにもならないカルマがあるにしても,そこからどのように解決の糸口を見つけ,幸せの軌道に乗れるかは,感覚が麻痺され鈍いと難しい。

もし仮に,感覚が麻痺され鈍いがために,多くの人々が他人に搾取され,盲目に従うことによって貧困のスパイラルからなかなか抜け出せないのであれば,それは日本の言語教育がまだまだ不十分だからとは言えないだろうか。