社会関係資本(Social Capital)について | 女王様のブログ

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ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。

今朝のニュースで,お盆の帰省ラッシュで渋滞している中,

ガス欠でJAFを呼ぶ男性のインタビューが映し出され,

ガソリンを入れる際,ケチったに違いないだろう人のお顔が全国に流れ,

言い訳に,「これは妻の車で僕のではないので・・・。」っと,何から何まで奥さんのせいにして,ガソリンをケチったことを素直に認めないのが返って分かり,

(世の中には微妙に本音が分かる会話が多い。逆のことを述べて,返って本音や核心をついていることを知るのは,生徒指導部で学んだ私だけの第六感。)

この人相当ダメで恥ずかしい夫だわと,こんなことを私の連れ合いが言ったなら,即刻離婚だわっと,

アイスコーヒーを飲みながら涼しげに感想を語るわたしですが,

皆さんはいかがお過ごしですか?


勤務校が2学期制なもので来週からしっかりと授業が始まり,3年生担当でもないのに全く夏休みがあった感じがしないです。ここ3年間はずっと夏休みなしです。

正直,来週も再来週も夏休みな人々が心底憎いです。


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さて,ここ何日かで受けた研修を備忘録として書き留めておこうと思います。


社会資本主義Social Captal)について


基本的な定義としては、

共同体や社会において人々が持ちうる協調や信頼関係のことを指している


現代社会においては,お互いを理解することがとても難しくなってきてる。



≪お互いが助け合うのではなく,責任をなすりつける関係≫


お互いの損害を最小限に抑えるため,つまり双方にとってのリスクを回避するために,何か事を行う時には相手の失敗を前提とし人々が行動することが顕著に表れてきた世の中,自分自身以外の他者を「信頼」しない,不信の社会といえる。


そのような不信の世の中は,人々が自らの意思で他人のために働きかけるということ(ボランティア活動など)のやる気や情熱を削いでしまっている。


例として上げられたのが以下のようなことだ。

ユダヤ人があるホテルの最上階を全部貸切にして滞在したのは,身の安全のためだったこと。つまり,歴史的背景にユダヤ人は国を追われていて,ナチスからは大量虐殺させられた事実があるから,ユダヤのコミュニティー以外の者を容易に信用しないところがある。


どうしたら一番被害を受けないかという最悪の状況を回避すること。リスクを回避するには,裏切りを前提とすることである。


人間と人間の関係の中で大事な源泉は,協調や信頼であるとするのが,社会関係資本という。


1993年、アメリカ合衆国の政治学者のロバート・パットナムが,イタリアの南部と北部では人々の社会資本主義が違い,南部より北部の方が人々の間の信頼や規範意識の度合いが強く,子供たちの学力も高かった結果から,人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性を高めることのできることを指摘した。 


だんだんと日本も人々を信じない傾向が強くなってきたのではないかと言われている。地域によってはそうでないかもしれないが,

「正直者がバカを見る」ことが多くなってきたからではないだろうか。

タダ乗りする人が多くなって,規則で縛らないと機能不全を起こしてしまうようになってきたからだと専門家は述べる。

以前は狡猾でずるい人間を自然に取り締まる自浄作用の社会があったが,そういった人々に何か言えば,むしろ言った方がつるし上げられ痛い目に合うことで,法で縛るより仕方なくなったのではないだろうか。相手が自分より弱い立場なら尚更,それだけで良いことすら悪く言われ,周りもそれに同調するからだ。


人々が社会関係資本を自ら損なわさせてしまっているがゆえに,あらゆる活動集団が細詰まりしてしまっている。


確かに,地域の活動,町内会のことや,PTAや子供会のことなど,一部の善意で引き受けた人々が割の合わない目に合っていることがよくある。周囲にも,○○さんが引き受けてくれるから自分は何もしなくていいというようなことを平気で述べたりする人がいた。


善意で引き受けたのに,何かあれば一番先に責められ追及される。きっと先方もこちらの意を汲んでくれるだろうと,大体予想がついた事態が,想定不可能になった。そのようなことが続けば,誰も引き受け手はいない。事の一部始終を見てきた子供達はもちろん,将来,地域社会でどのように振舞えばいいか分からなくなってしまう。


近年,特に私が感じていることは,家族という一番小さな団体の中で,

一昔にはなかったようなことが起きているということ。

これは,以前よりもずっと地域と地域の壁が低くなってきたことによるものであったり,グローバル化の流れで一つの巨大な何かに飲み込まれるようなことが,伝統や文化の消失と共に,人々の内面にも変化を与えていることなのではないだろうか。地域活動の意義を理解し,厄介な負担を若者が嫌がって引き受けないこともこの最大の理由だ。多くの人々の中に,ある種の大規模なアイデンティティークラッシュが起こっていると言える。


こういうことは,田舎の地域より,高度経済成長の波に押されて上京してきた人々が作ってきた,歴史や伝統のない都会の地域の集まり(いい言葉でいえば自分の義務に対する責任を回避でき,核家族の自由で気ままな生活を送れ,思ったことがすぐに出来て,責任を回避したからと言って誰も咎められない人々,悪く言えば,今まで負担を回避してきて,自分が困ったときにだけ負担を周りに強いるご都合主義の人々)が顕著に表れているのではないだろうか。都会の人間関係がドライで冷めているのも,ある意味,「不信」の芽かあるからだと言える。

一度不信の関係に陥った場合,人為的にそれがどこまで回復できるのかは,私には分からないけれども,世の中に信頼の芽を植え,咲かすことの困難さは痛いほどわかる。


所詮,どの組織も団体も,人間が作り人間しか頼りに出来ないのならば,

信頼できうる人材を育てるしかない。

きっとそれは小手先のことでは成せない。

全ての方向から判断して,この人なら将来を任せていけると言える人材になりうるかどうかは,その人自身が決めるというより,その人の環境や周囲の人々で決まるのではないだろうか。

リーダーになるべくしてなる人間は,そういうものだから。


内田樹先生が,これからはもっと宗教的に世の中は変化していくだろうと述べられたことが私には分かる。

それほど,世の中の人の善意は通じなく,エゴが蔓延し,自分の利益の為なら,平気で他人を出し抜き貶める(特に世の中の要職に就く人間がそういう人物であることが以前にもまして多くなってきた。だから日曜ドラマの『半沢直樹』のやられたら倍返しが流行っているのだ),救いようのない汚い心の持ち主が何十万人もいて,論理ではどうにもこうにも解決できないことが起こっているし,将来もっと起こり得る可能性があるからだ。

本当に苦しくてどうしようもない生活弱者の人に手を差し伸べる者が,むしろ珍しい世の中になってしまうのではないかと私は思った。