ビジネスマインドが教育を語ることができないと,内田先生がブログで書いていたことを思い出す。
株式会社設立の大学が経営破たんしたのは,教育とビジネスがとても合わない性質であることの所以であると述べられている。
株式会社立大学の末路
http://blog.tatsuru.com/2009/06/19_1302.php
(以下引用)
経営のノウハウを教える教育機関が経営破綻した場合、説明の可能性は二つある。
一つは、「経営のノウハウ」を教えることを謳ったこの教育機関の経営者たちが実は「経営のノウハウ」をよく知らなかったということである。
魅力的な解釈だが、私はこれをとることを自制する。
私がとるのは、教育機関の経営にはいわゆる「経営のノウハウ」が適用されないという解釈である。
教育はビジネスマンが来るべき場ではなかったのだと思う。
そういう理解でいかがだろうか。
黙って教育の世界から消えてくだされば、それで私の方は構わない(別に私なんかに構われようと構われまいと、先方にとってはどうでもよろしいであろうが)。
LECの他でも、TAC大学院大学は2006年に開学を予定していたが、受験生パンフレット内容に法令違反があり、文科省から厳重注意を受け、結局、開学申請を取り下げた。サイバー大学をめぐる騒ぎについては、このブログでも過去に取り上げて論じたことがある。
株式会社立大学はどこも困難に直面している。
おそらくその過半は遠からず「市場から退場」することになるだろう。
「市場は企業の適否を決して間違えない」というゲームのルールは彼らが最初に提案したものである。
そうである以上、彼らにはこの事態を説明するときの選択肢はあまり残されていない。
「私たちは失敗したビジネスマンである」とカムアウトするか、「市場は生き残るべきものの適否の判断を過つことがある」と認めるか、いずれかである。
どちらの選択肢を選んでくださっても構わないが、日本の未来を考えるなら、できればより生産的な第二の選択肢を選んでほしいと思う。
そして、ビジネスマンの教育への参入、教育を市場原理によって律することを歓呼の声で迎えた“有識者”諸氏には、可能であれば、ぜひ自省の言葉を聞きたいと思う(もちろん誰もしないとは思うが)。
大学はどうなるのか
http://blog.tatsuru.com/2009/02/07_1629.php
(以下引用)
繰り返し言うが、大学は「こういう教育を行いたい」と強く念じる人によって創建されたのであり、大学を存続させるために「どういう教育プログラムを実施すればいいのか?」という問いを立てること自体、そもそも本末転倒なのである。
大学を存続させる力は「世間がなんと言おうと、こういう教育を行いたい」とつよく念じるモラルの高い教職員たちのオーバーアチーブである。
ビジネスマン主導の大学の共通する特徴は、大学教授会の権限がきわめて低いことである。
(わたし)
内田先生が書かれた上記の記事は,大学だけでなく,高等学校教育においてもいえることだとわたしは考えている。
教育をビジネスマインドで語ることが通じた時代は通り過ぎた。(皆がバブルで浮かれていたので,話題にもしなかっただけなのかもしれないが)昔はビジネスと教育ととが同時並行で普通に語られていたのかもしれない。しかし,それは今の時代に即さない。そもそも原則的に,「教育」と「ビジネス」とは,ミスマッチなものであると,人々が直感しているからだ。
世の中が厳しくなってくると,世間は様々な「簡単に儲けられる話」を話題にするようになる。それが企業のことだけであればいいのだが,教育,学校現場まで及んでくれば,それは非常に危険な信号なのではなかろうか。
それが,たとえ専門性があったにせよ。16歳~18歳の子どもに,最小の労力,費用でもって,最大の利益を上げるというような,ある意味,教育的でないことを教え込むなど,非常に危険だ。効率性・即効性を要求して,壊されるものの方が,教育現場には多いからだ。
最近の若者に「学ぶ力」がなくなってしまったのは,「それを学んだらどうなるのか?」「あまり勉強をせずに,高得点をとるにはどうすればよいか?」「オレ(私)はあまり勉強してないけど、○○大学に合格した。」などの,学びの無意味性,効率性を堂々と述べることができる状況が背景にあると思う。
それを学ぶのに意味あるの?節とか,なんか得があるの?節とか,そんなに一生懸命しても無駄じゃね?が横行してしまった結果だ。
ビジネスは,効率性,即効力を要求するものであるので,それが教育全般にマッチするとは到底考えられないのである。その年代の子ども達は,情緒的にも身体的にも未成熟であるがゆえに,もっと非効率で緩やかな流れ,個々人に応じた対処,その場に応じた対応が必要だと私は考える。
それが肌で一番分かっている人間が,現場の教員の先生方だ。その現場の教員の意見を無視した方法で舵を握ろうとすれば,必然的に現場のやる気(オーバーアチーブメント)を削ぐ。そして,最終的に良い結果も望めない。
やる気を削ぐことだけに必死になって,現場の教員のオーバーアチーブを後押しするような人たちが,あまりにも少なくなってきた。
オーバーアチーブメントは,自ら必死になって働きかけた現場からのたたき上げの人でしか推進できないのではないだろうか。気持ちが分からない人間に,推進できない。決して簡単でないし,一度心が離れ「もう,どうにでもなれ!どうでもいい!」などど思うような人が一人でも出てくるのであれば,一気にすべては崩れ落ちると私は考える。
皆,ギリギリのところで踏ん張っている。それは,オーバーアチーブするに足りるものがあるからだ。その感覚は,現場にしか分からない。それが,何なのかは,誰が何と言おうと,経験したものしか分からない。
分からない。(大事だから2回言う)。