今週末,中国・カンボジアから総勢20名の中学・高校生が国際交流のためやってくる。
中国からの学生は,中国語のクラスに行く。
そしてカンボジアからの生徒は,女王様のとこの英語のクラスを受けることになった。他にも,家庭科や書道の授業を受ける模様。
このカンボジアからの学生たちが来ることで,僕達が英語以外の外国語に触れる良い機会だとお引き受けした。
(うちのクラスの学科はないけど,別の学科で中国語は学んでいるけどもね)
私たちの話している日本語と同じように,どの国の言葉も同様大切な言葉であることを知ってもらいたいのだぁ。
英語が今一苦手だという君も,別の言葉なら興味がもてて,得意になれるかもしれないzo。
カンボジアの国がどういう国か,多分全然わからないと思うので,ちょっと紹介。
カンボジア王国(カンボジアおうこく)
通称カンボジアは、インドシナ半島 に位置する東南アジア の立憲君主制 国家 。
東にベトナム 、西にタイ 、北にラオス と国境を接し、南は南シナ海 に接する。首都はプノンペン 。国民の90%以上がクメール語 (カンボジア語)を話し、仏教 (上座部仏教 )を奉ずるクメール人 (カンボジア人 )である。2009年 のGDP は約108億ドル(約0.9兆円)であり[2] 、鳥取県 の半分程の経済規模である
正式名称は、クメール語 で(発音:プリアリアチアナチャクラプチア、ラテン文字表記:Preăh Réachéanachâkr Kâmpŭchea)。プリアは王の称号。リアチアは王、アナチャクラは国で、両方合わせたリアチアナチャクラは王国と言う意味。隣国のタイの正式名称とよく似ている。公式の英語表記は、Kingdom of Cambodia(キングダム・オブ・カンボゥディア)。略称は、Cambodia。日本語 表記は、カンボジア王国、通称は、カンボジア。漢字 表記は柬埔寨。では自分の国を「カンプチャ」と呼んでいて、建国者といわれるインドのバラモン僧「カンプー」とその子孫を意味する「チャ」に由来する。
(歴史)
1968年には米軍の空爆が始まり、1970年には親米
派のロン・ノル
将軍のクーデターによりシハヌーク国王が追放され、クメール共和国
が樹立された。
ノロドム・シハヌーク 国王の下で1949年にフランス から独立後、ベトナム戦争 が始まると国内は不安定化し、アメリカ と南北ベトナム が介入し内戦状態となった。
内戦は一層激化し、空爆がカンボジア全域に拡大され数十万人が犠牲となると、クメール・ルージュ 勢力の伸張をまねいた。
1975年
極端な共産主義 を掲げるクメール・ルージュの独裁者ポル・ポト 政権が成立。
1979年までに、旱魃、飢餓、虐殺などで100万人以上とも言われる死者が出た(内戦前の最後の国勢調査が1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ている)。
1979年にベトナム軍 が侵攻しポル・ポト政権を打倒。その後ポル・ポト派含む三派とベトナム、ヘン・サムリン 派との間で内戦が続いた。
1989年にベトナム軍が撤退、1991年10月にパリ和平協定 が結ばれた。
1992年3月から国際連合カンボジア暫定統治機構 による統治が開始され、1993年には国連監視の下で民主選挙が実施された。この時の国連の代表が日本国籍の明石康 である。9月に制憲議会が新憲法を発布し立憲君主制 を採択、ノロドム・シハヌークが国王に再即位した。
2009年12月18日、カンボジア特別法廷 [4] は、キュー・サムファン 元国家幹部会議長を大虐殺(ジェノサイド )罪でも訴追 することを通知した。法廷は、16日までにヌオン・チア 元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相の二人にも大虐殺罪適用を決定している。
(政治)
国家体制は国王 を元首 とする立憲君主制 である。現在の元首は2004年10月に即位したノロドム・シハモニ 国王。立法 府たる国民議会 は両院制 を採用しており、議員は直接選挙 で選ばれる。
カンボジアの民法 の整備には日本 が全面的に協力している。カンボジア憲法には、内政不干渉、紛争の平和的解決、永世中立 が明記されている