どうしても分かり合えない人とどうやって付き合っていくかについて | 女王様のブログ

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ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。

自分とは間逆の意見を持っている人間と折り合いをつけるには,どうしたら良いのだろうか?


相手の意見に絶対同意できず,自身が不快な思いをするような時には,無視して関わりあわないことが一番いいのだが,


そうもいかない時は,表面上だけの付き合いをする。


相手を許容する余裕が自分にはあっても,相手にない場合は,ほっておくしかない。


何を言おうと無駄。相手が折り合う気持ちが微塵もないところでの会話は平行線。


背反する意見をもった相手に反応することは,まだ関心が残っているらしい。


完全に反応しなくなった時点で,その人との交流は断絶される。


親友からご近所さんへ,ご近所さんからから通りすがりの人へ。それから,できれば関わりあいを持ちたくないような疎ましいような存在へ・・・。


つまり,その人は居てもいなくても良いような存在,居てもらっては困るような存在になる。本音で話が出来ない人になる。


皆が皆同じ考えを持つことは不可能。

生まれ育った環境が違い,生まれもった気質が違えば,感じ方や考え方も自ずと違うから。


しかし,そういう違いを乗り越えてどこかで折り合いをつけていくのが大人。


自身は他人に対して自分の限界を示せても,他人の限界を知ろうとしない傲慢で横柄な人間に会った場合。


私はずっとそういう人に向かっていっていた。若さゆえ・・・たぶん。


しかし,


今はそういう人たちと極力話をしないほうがいいのではないかと思うようになったのだ。折り合いの付ける人とは自由闊達に意見を交わしてもいいけれども, そうでない人間に,ものを申しても伝わらない。


女王様は自分と反対の意見を思った人間が好きである。自分にプラスになると本能的に感じるからだ。頭の中が全速力で働いて,この人に私の真意を伝えるにはどうしたらよいかとすべてが回転し始めるのが好き。心のこもった真剣な言葉が行きかうのが好き。


日本人は大抵の場合,自身と同じ意見を持たない人間を排除しようとする傾向がある。自身の意見に反対されたら,人格まで否定されたように感じる人が大半のようだ。


言語の中に自分を投影して中に入りやすいのが日本語。

客観的に述べるのが英語。


この違いがそのようにさせているのかもしれない。


私は,違う意見をもった人間とたくさん意見を交わし,相手や自分がどんな人物であるかを知ることは面白い。


こういう議論のできる人は日本には少ない。



議論下手な日本人のことを変えていかなれば,いくら海外に行っても無駄なような気がする。


自分というものがない人間が外に向かって何を伝えられるのかしら?

何かを伝えることなどできるわけがない。


大人ですら発信できないものを,

子どもに要求するのはどういうことかしら?


分かり合えない人間を通して学んだことをちょっとメモ。