昨日は,女王様の学校に県の指導主事が来て同僚が研究授業をした。
最後に,英語の校歌を歌ったのは良かった!(バリ声で)
晩は,授業者と指導主事を囲んでの飲みがあって,
女王様が,江利川先生や寺島先生が言われているようなことを話をすると,白熱した議論になってしまって,皆が,バトルだと言った。(寺島先生の名前も著書も知らない感じだ。)
あれは決してバトルでない。
考え方の交換であって,個人を非難しているわけでない。
でも,
指導主事が,
最初,「~~先生」と呼んでいたのに,途中から「あなた」と呼ばれたのは,ちょっと嫌だったな。イライラしたのしていたのでしょうね,きっと。
だって,指導主事だって現場の教員と全く同じ意見だと思ってはいけないのよ。指導主事の言っていることを皆受け入れると思ったら,大間違いだからね。
言語に関しては,現場の人間であっても,指導主事より勉強していることもあるわけでしょ。
もし現場の生の声を前にして,カリカリするのであれば心狭くない?そっちの方が問題だ!
現場を長らく離れていて,現場に指図されるのはあまり気分がよくない。言われたことなど,全く真新しくなくて,とっくに皆もやっていることばかりなのに。
すでに,生徒のためにやっていることを,もっとやれだとか言われる筋合いは全くない。
そんな風に,帰ってきた。
現場の人たちの方が,英語教育の核心部分を突こうとすると論理で話ができなくなる。
女王様は,
母語で表現できないものをどうやってディベートするのかなぁ?
そして,英語が国際語だと堂々と言うから,その考え方はちょっと違うと,
英語はそこまで万能でないと言いたかっただけ。
中国との関係を良好に保ちたかったら,中国語を話せる人を増やした方がいいと単純に思っていっただけなのだ。韓国もそうだ。
それから,
授業で話している内容の中身までは英語科の教員がすることでないとか,内容を深める作業はしなくてよい,他の教科の仕事で,他の教員に任せればいいのだ。とかいったのも納得いかない。
内容を深めていくことも大事だ。
英語教員はテープレコーダーでない。
指導する立場の人が,まず様々な議論の中でもまれることも大事だと私は思う。
そうでなければ,独善的な感じになる。
大阪の禿は,そういった違う考えを持った人たちの議論の中でもまれていないから,議論できないし,独善で独断的な主張をしてしまうようになるのだ。自分と違う人間の意見を無視して,変だと思われることをずっと主張し続けるのだ。
しかも,本音は,決して子供たちや現場のためでなく,自分の立場を擁護して保身に回って,願わくば自分の名前を世間に売り出したいというイヤラシイ根性なのだ。
まず,人の話を全く聞かない。
話を聞かない人間の話を何で聞かなければならないのか?
どういう考えでその人が意見を述べているかをまず指導する立場の人間が,感じて謙虚に受け入れることが大事なのではないだろうか。
少なくとも,私は子供達に対してはそうする。
絶対に逃げるような卑怯な真似をしない。
禿は逃げた。逃げ回って今も調子よくやっているふりをしている。内心はビクビクしているくせに。いつか化けの皮が絶対にはがれる。絶対に許さない。
それはそれとして,
私としては,まず,自分の考えを身近な他人に話して,違った見方があることを伝えることから始める。
それが第一歩。