理論が先行か,実践が先行か? | 女王様のブログ

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ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。

理論が先行か,実践が先行か?



あらゆる世の中の現象において,先行されるもとはなんだろう?

それは,人それぞれに考え方が違うように,優先されるものも異なってくるに違いない。


理論は実践を伴って開花されるものであり,実践は理論がなければ普遍的なものになりえず,非常に不安定だ。


例えば,ある実践はA氏には可能であるが,B氏には不可能。C地域では可能だが,D地域では不可能。と,それを行使する人や状況によって同じ結果が得られないのであれば,その実践の効力はたいしたものでなく。影響もない。


たまにうまく言った人間が,自身を神格化して「俺様(あたくし)には出来ますよ。こうすればよろしい。」といって自慢して回るだけのこと。本当の影響力にはなりえない。(そいつらの不気味なこと)





私(女王様)は,すべての現象は理論が先行すると考えている。そうでないと,人間様が歴史上に今まで,あーでもない,こーでもないと悩み議論してきた意味がない。文明的な生活を送れない。野蛮人とさして変わらない非文明的な感がするし,不安定極まりないからだ。





凡人が100年かけて出した結果を,「知」のある人が正しい理論で行なえば3日で得られる。極端だけれども,そのくらいの労力の違いが発生するのだ。



私達が,知的に快適に文明社会を生きていくには,そういった「知」が必要となってくる。





人間を突き動かすものは,一人一人が宿しているその人なりの理論なのだけれども,その人がどのような理論を持っているのかということに,自分自身気づいている人は少ないように思う。




自分でしか持てない持ち物(裸になってみたときに持っていられるもの)は,裸になってみないと分からず,また,異なったものに遭遇しないかぎりは,自身がどのような理論の持ち主なのかも分からない。裸になり,異質なものに会わなければ分からない。




しかし,分かったところで,その理論を制するのも理論なのだ。



その理論が乱れれば,悪いほうに行くし,良ければ良い方向に行く。





それが分かっている人が,世の中に存在する賢者であるはずなのに,その賢者がどこで何をしているのか,その存在を切望している人ですら分からない。日本は特にそういうところ。だから,賢者は住みづらいというのかしら?



はて,日本の賢者はどこで何をしているのかしら?海外かしら?





賢者の言うことは万民が納得するはずなのに,その万人の個々の価値判断が間違った理論が元であるなら,見落とされたままだ。




正しい理論は,優れた実践を伴う。優れた実践は,理論を越えることが出来るかもしれないが,その成功した実践も,しっかりとした理論で説明がつかない限りは,その効力は怪奇現象とあまり変わらない。普遍とはなりえず,一過性のラッキーな出来事で終わってしまう。それは,長期的に見れば,他に影響を与えることは出来ない。いや,今,すぐそばに居る人にすら影響を与えることなど難しい。



根性論で乗り切るには濃く過ぎる。どうにもならない。スポーツにすら科学的な理論があるのに・・・。





優れた理論は経験・実践を先行する。文明社会はそういうもの。そうでなければ,人間の知性は否定される。