臨床心理士の先生の話 「愛情と教育」そのはらむもの⑦(子供は変わったか⑥の続き) | 女王様のブログ

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ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。

いつの頃だろうか


「やっと一人前の器になったね」と祝われるはずの成人(格)式の様子が変わり始めたのは。


それどころか,21世紀に入ると,目を覆いたくなる光景が毎年の恒例となっていった。最前列で酒盛りしながら,祝辞を述べる市長に向かってクラッカーを鳴らす。



若者同士もけんか。


最後は,警察に逮捕(補導?)され,告訴した市長に親が謝罪文を持参。




世の中は,いっせいに「許せない行為,世も末か・・・」という声であふれかえった。




子供や若者は,その時代のあり様を映す鏡だと言われる。とすれば,いったい,この光景は,何を映しているのか?




【困れない子供から困った大人へ】


「この子が困らぬように」という深い思いは,親や教育に携わるものならずとも多分に誰もが,時代を超えて持ち合わせてきた「愛情」という思いである。




特に「今日をいかに生き延びるか」といった時代ほど,困ることは死につながることであり,「自分は食べずとも,せめて子供だけは・・・」という切実な思いが,実際子供たちを救い育ててきた。




しかし一方では,いくら思いはあっても,家計に教育費という項目は無く,「してあげられること」には限りがあった。




お陰で子供たちは,親の思いも現実という厳しい限界も目で見て肌で感じながら生きてゆけた。その中で,自分が背負えることは背負いながら,「困れる力」をいや応なしに身につけることとなった。




ところがいつの間にか教育費という言葉は全国共通語となり,「困らぬように」という『愛情』はさらに増幅されてそのまま形として子供に降り注がれるようになった。




子供の数は減る一方で,一人の子供に降り注ぐエネルギーの量も質もかなり変容していった。我が子が「困らぬように」と,2年も3年も挙句の果ては将来までも,子供に代わり「先取り」して心配する。





また,子供同士の人間関係に入り込みすぎて「肩代わり」して悩む親たち。塾や習い事,あるいは様々なイベントなど,常に何かを与え「ふりかけ」ないと子育てや教育ができないという思い込みであふれた世の中になった。




その結果,子供たちは,自分のことで動けず,悩み方も分からず,八つ当たりしかできなくなった。ちゃんと「困りながらも人との間でやりくり」できる自分を確かめられなくなった。




同時に,「自分で選ぶ,試す,失敗も含めて味わう,決める,尻をぬぐう(責任をとる)」といったことが難しくなってきている。




そして,「困れない子供たち」が,「周囲を困らせる形でしか助けを求められない「困った大人」となり,親と呼ばれる時代となった。その子供たちは,今,人の存在をゲームとしてもてあそぶ犯罪に近いことをでしか集えない。




これを昔と同じ「いじめ」という言葉でくくれるのだろうか・冒頭の成人式の若者たちの「困らせぶり」は,そのまま今という時代の「困りぶり」を映し出しているように思えてならない。