
昨日の仕事帰りに本屋に立ち寄ったら,
この本を見つけたので早速購入。
英語教育を取り巻く様々なことを知るにつれて,
なんで,あたしは英語教師になどなってしまったのかと思わずにはいられない。
学生時代に,こんな運命になるような教科と知っていたら,絶対に選択しなかった。
そうなのだ。
英語の教職を選んだ時点で,すべての悩みは最初から決まっていたのだ。
なんで十代の頃,このような本を読まなかったのかしら,私は。絶対に英語なんか選ばなかった。
そういった意味で,今の十代が羨ましい。
高校時代に,京大出の先生が全然英語できなくって,発音めちゃくちゃ下手くそで,英語の授業は退屈で
先生自身が何年経っても実際しゃべれるようにはならないことに,疑問を感じていた。訳読式の授業も眠くなり,先生がまともに外人と話をしている場面すら見ることが出来なかった。だから,私が変えたいって思って選んだのに・・・・。
私が中・高時代に出会った英語のできない英語の先生も,非常に意味があったことなのだと,むしろ今となっては日本語を守る守護神みたいな人達であったわけだ。
大日本帝国の流れのような英語の授業は,今思えば,子供達に「これは,うその英語だ!本物ってどんな感じなのかしら?」とか,「何が楽しくってこの先生こんな事を私達に教えようとしているのかしら?」とか,かえって知的好奇心をそそったのかもしれない。
私が英語に興味をもったのも,そんな感じだから。
導入に関する議論のあるうちは,頻繁になされていた言語の本質の部分が,英語の教授法に移行すると抜けて見えなくなってしまう。真っ黒な闇に葬り去られてしまう。
その真っ暗闇を晴らすのは,教師自身なのだけれども,それに気付かないで, 自分を責めたり生徒を責めたり環境を責めてしまうのだろう。
知っていて教育を施すのと,知らないでするのは雲泥の差があるのだ。
英語教育が非常に複雑な背景の下,様々なしがらみがあり,教科としてはむしろ負の面が多いがゆえに,
いい加減なことが出来ない。だから,私はそのことに気付き, その上で変な方向にこれが行かないようにできる人達の一人かもしれないと思うようにした。
そのように思うと,自身の存在の意味も感じられるようになる。
とにかく,最後のもの以外は本当に納得できる,英語教師として保護者として日本人としてホッとできる内容だった。学識のある先生方の言葉はやはり素晴らしいと思う。
それから,一つ。
1リッターの名水の中に,少しでもうんこが入ると,それは名水でなくうんこの水。全く飲めない。
最後に載っていた,カメレオンのように言動を変えている奴の文章は,自ら考える事をしていないルーズでいい加減で狡猾な人間の象徴であり,私自身はうんこそのものだと思っているので不愉快極まりない。
健気に影で頑張っている清らかな名水のような先生方の中に落ちるうんこのような存在。
大津先生が,こいつを載せる意図は吊るし上げてやっつけるものだと思っていたので残念。
気持ちの悪い真実の姿を知っている私は,この書籍は素晴らしいと思っているがうんこが付いているのですこし残念だという感じ。
奴は,自分に非が及ぶのを恐れて保身に回っている。言い訳がましい。そういった姿が見え見えだ。
あなたに,現場の先生が心配だと言う権利は全くない。「やりましょう!やりましょう!」と宣揚していたのはあなた自身でもあるのだから。
うんこが付いているのが気に食わないが,
為になった本だと思う。
英語の職に就いている方,もしくはこれから就こうとしている方にお勧めだ。