臨床心理士の先生の話「心の器」③の続き
前回の話はこちら↓
http://ameblo.jp/indego-blue/theme-10010490690.html
「いったい子供達の『こころ』はどうなってしまったのか?」
この問いをテーマとして,まずは通常の「こころ」の発達について述べてきた。子供達の「こころ」が変わってきたという声が,教育や医療など様々な現場で,年々確信的なものとなってきている。
それでは,子供達とそれを取り巻く状況が,具体的にどう変わって来たというのか?
[言葉の使えなさ]
いつの頃からか,子供達に何を訊いても,流行語のようなお決まりの言葉しか出てこなくなった。しばらく前は,「メンドイ(めんどうくさい)」「ウルセイ(うるさい)」あるいは「ムカツク」の4文字の時代。その後,4文字は「ウザイ」「キレタ」のの3文字となり,次に「チェッ!」と単語ではなくなり,最後はとうとう言葉がうせて「ペッ!」とつばを吐きながら手や足からパンチやキックしか出なくなった。
おそらく,いろんな事情があり、それにまつわる考えや思いもたくさんあったにもかかわらず,すべてを数文字の単語に込め,結局最後は収まりきれず暴力と言う行為に転化させていった。
自分のあり様(抱える事情や心情)を人に伝えるための役割を持つ言葉を使えなくなった。否,言葉を使って自分を伝える『人』がいなくなった。
下校後,後追いしながら,聞き流されても,とにかく伝えたい「人」の存在がいなくなった。代わりに,いつも変わらず待っていてくれたのは,八つ当たりまでをも吸い取ってくれるテレビゲームのキャラクターたち。
そこには,言葉は必要ない。怒りや悔しさは,コントローラーを弾く親指から,相手の存在を抹殺する必殺技へ転化されていった。
人との間でしか出来ない,「こころ」を言葉にのせて自分を伝える行為は,大人たちが1980年頃から普及したテレビゲームに子守を任せた時から確実に減少していった。
[『キレル』という行為]
相手との間でいろいろあって,「頭にきた!」と怒りが我慢の限界を超え,とうとうつかみ合いの喧嘩になってしまうことは,昔から見られた人間関係上の出来事である。また,それを通して仲直りも覚えてきた。
しかし,今問題になっている『キレル』という行為は,あまり脈絡もなく突然に,相手やところもかまわず,一方的に撒き散らす暴力という行為である。
「なぜキレルのか?」
この問いには,いろんなことが考えられるが,どれもはっきりとはせず,答えが闇の中に入っていく印象がある。
むしろ「普通は(あるいは自分は),なぜキレないのか?」という観点から考えてみてはどうか。
普通は,たとえ人に対し恨みつらみを持ち,想像(あるいは夢)の中で暴れて殴りかかっても,現実の行為にまではなかなか移せない。それは,移すことを止めてくれる大切な人が心の中に幾人も宿っているからである。
人とのかかわりが,「キレタ」子供達の中に宿っているものは,子守をしてくれた仮想のキャラクターかもしれない。