ある大学者の講話の話が興味深かったので,転載します。
消費者マインドで教育にかかわるテーマ
商品を購入するときに、「売り手」がその有用性と意義を「買い手」に説明できない場合、その商品は「無価値」なものと判定される。
消費主体としては、それが合理的である。
無価値であれば、もとより勉強する必要はない。
子どもはそう結論する。
だからといって、子どもの「何の役に立つんですか?」という問いに子どもにもわかる答えを処方しても、事態は少しも変わらない。
それは「学校というのは、子どもにもその有用性や意義がわかる商品を扱うところである」という理解に子どもを導くだけである。
となれば、消費主体のその後の仕事は一つしかない。
それは、その商品を「最小限の対価」で手に入れるためにはどうするか工夫する、ということである。
商品を「買い叩く」ための基本は当該商品に対する欲望をできるだけ示さないことである。
だから、子どもたちは可能な限り授業に集中せず、教師に対する敬意表現を手控え、「学びたくない」というメッセージを全身でアピールする。
それは学校に来たくないということでも、学校で教わっている教科が無意味だと思っていることでもない(現に学校には来ているし、教科の有用性も理解している)。
彼らの関心は「どれだけそれを安い代価で手に入れるか」なのである。
使用価値の高い商品をかなうかぎりの安値で手に入れる消費者が「賢い消費者」だとされているからである。
だから、もし学力をほとんど身につけない状態で(四則計算ができない、アルファベットが読めない、漢字が書けない)大学卒業資格を手に入れた子どもがいたとすると、その子どもは「きわめてクレバーな消費者」だったということになる。
論理的にはそうなるし、現実的にももうそうなりつつある。
世間では一流とされる大学を卒業していながら、「こんなことも知らないのかよ」と仰天するほど無知な若者たちが簇生しているが、その無知を指摘されても、彼らはまったく動じない。
むしろ、「だって、オレ、ぜんぜん勉強してなかったですから」とそのことをほとんど誇らしげに語るのである。
ぜんぜん勉強しなかった(ので、幼稚園児程度の学力しかない)けれど、一流大学を出たというのは、いわば「五円玉一個で自動車を買いました」というのに類する「賢いお買い物」なのである(それは、小学校高学年程度の情緒の発達段階であるにもかかわらず、現実には就職し、結婚し、子どもまでいるという「中身は子どものままのおじさん・おばさん」たちの大量発生と同根のものである。これもまた「市民的成熟のための努力抜きで、市民としての権利を行使できる立場になれた」という点では「賢いお買い物」なのである)。
消費者マインドで教育にかかわるということは、そういうことである。
だから、子どもが消費主体として教育の場に登場することを許してはならない。
それは学校が破壊されるだけでなく、子ども自身を「自己破壊」のプロセスに押しやることだからである。
教育者の急務は市場原理、消費文化の教育への浸潤を全力をあげて防ぐことである。
子どもたちを「同時代のドミナントなイデオロギーから守ること」、それが教育の存在理由である。
学校は対抗文化の拠点でなければならない。
という話をする。
30年教師をやってきて、その経験から導かれた自明の結論だと私は思うのだが、あまりそういうことを公言される方はいない。
消費主体としては、それが合理的である。
無価値であれば、もとより勉強する必要はない。
子どもはそう結論する。
だからといって、子どもの「何の役に立つんですか?」という問いに子どもにもわかる答えを処方しても、事態は少しも変わらない。
それは「学校というのは、子どもにもその有用性や意義がわかる商品を扱うところである」という理解に子どもを導くだけである。
となれば、消費主体のその後の仕事は一つしかない。
それは、その商品を「最小限の対価」で手に入れるためにはどうするか工夫する、ということである。
商品を「買い叩く」ための基本は当該商品に対する欲望をできるだけ示さないことである。
だから、子どもたちは可能な限り授業に集中せず、教師に対する敬意表現を手控え、「学びたくない」というメッセージを全身でアピールする。
それは学校に来たくないということでも、学校で教わっている教科が無意味だと思っていることでもない(現に学校には来ているし、教科の有用性も理解している)。
彼らの関心は「どれだけそれを安い代価で手に入れるか」なのである。
使用価値の高い商品をかなうかぎりの安値で手に入れる消費者が「賢い消費者」だとされているからである。
だから、もし学力をほとんど身につけない状態で(四則計算ができない、アルファベットが読めない、漢字が書けない)大学卒業資格を手に入れた子どもがいたとすると、その子どもは「きわめてクレバーな消費者」だったということになる。
論理的にはそうなるし、現実的にももうそうなりつつある。
世間では一流とされる大学を卒業していながら、「こんなことも知らないのかよ」と仰天するほど無知な若者たちが簇生しているが、その無知を指摘されても、彼らはまったく動じない。
むしろ、「だって、オレ、ぜんぜん勉強してなかったですから」とそのことをほとんど誇らしげに語るのである。
ぜんぜん勉強しなかった(ので、幼稚園児程度の学力しかない)けれど、一流大学を出たというのは、いわば「五円玉一個で自動車を買いました」というのに類する「賢いお買い物」なのである(それは、小学校高学年程度の情緒の発達段階であるにもかかわらず、現実には就職し、結婚し、子どもまでいるという「中身は子どものままのおじさん・おばさん」たちの大量発生と同根のものである。これもまた「市民的成熟のための努力抜きで、市民としての権利を行使できる立場になれた」という点では「賢いお買い物」なのである)。
消費者マインドで教育にかかわるということは、そういうことである。
だから、子どもが消費主体として教育の場に登場することを許してはならない。
それは学校が破壊されるだけでなく、子ども自身を「自己破壊」のプロセスに押しやることだからである。
教育者の急務は市場原理、消費文化の教育への浸潤を全力をあげて防ぐことである。
子どもたちを「同時代のドミナントなイデオロギーから守ること」、それが教育の存在理由である。
学校は対抗文化の拠点でなければならない。
という話をする。
30年教師をやってきて、その経験から導かれた自明の結論だと私は思うのだが、あまりそういうことを公言される方はいない。
この方の話を読んで,30年教職についているベテランの先生ってするどいと感じる。
実際,上に書かれているような学生が,世の中にはうようよいるし,実際そういった学生が多くなってくると私自身も感じる。
実際の大人たちも,人間的に成熟した大人と言えずに,また子供を産み育てる。その子供がまた成熟する前に,子供を生み育てる。っといったことの繰り返し。
日本の社会だけが,こんな風に人間を未成熟のままに大人にしてしまっているのだろうか?
しかし,何を持って成熟というのかも私自身疑問に思う節もあってなんだかまとまらない。
中には,立派な青年も多く(私もその中の一人でいたい),そのような人達がどうにかしていけばよいわけで,
どうにかしなければならないと思わない人間達が多すぎるから,こんなになってしまっているだけではないかしら。
傍観者も同罪。
善を施さない人間は悪。
無関心も悪。
分かってますけど, 私達の世代だって。
結局,こんな風な世の中を作ってしまったのは,実際,私達でなく私達の先代なんだよね。
でも,今変えないと,今度は私達の子供の代まで大変な時代になってしまう。
誰が変えられるのか?
金さえ払えば,中身もなく保障のあるものを手に入れられるような状況が教育の中にあってはまずい。
教育はそうであってはならない。
教育は人間の根幹。良いも悪いも,幸も不幸もすべてこれで決まってしまう。
ちゃんと防がねば,一気に滅びる,私の大事な日本。
このような混乱した世の中になったら,必ず救世主みたいなカリスマっぽい指導者が現れるといわれているが,
一体誰なんだろう?どこで何してるんだか?
わたくしたち,もう完全に待ちくたびれてます。
あまり良い例ではないが,ヒットラーもそのような時代にうまれた指導者。
本当に切望してる。力あるリーダーを。