島田雅彦「佳人の奇遇」を読んだ。

作中、登場人物がここぞと口にする口説き文句にやられてしまった。過去の自分を振り返ると、その言葉の乏しさに恥ずかしくなる。

ビジュアルが良ければ、言葉に労力を割く必要なんかないんだろう。どっこいこちらは、顔の方は至って人並み。一番よく言われる言葉は「どっかで見た顔」、だ。「居心地」のみを武器に戦ってきた。
それでも、アドバンテージなしで恋愛を楽しめる自分の立場を、それなりに得したなと思えるくらいには大人になった。

小説にはドンファンとか、僕も好きな在原業平なんかの話も出てくる。いわゆる昔のプレイボーイ(ドンファンはそんな生やさしいもんじゃないけど…)は自分からとにかく口説きまくっている。そこで、モテにビジュアルは関係ないとかそういうことが言いたいんじゃなくて、口説き文句は、人が一生のうちに吐く言葉の中でも一番美しいんじゃないかってことだ。

作中で好きだったのは、義父が息子の嫁に贈った口説き文句。引用はできないけど、年をとったら若い女性に是非言ってみたい。

在原業平の「君により 思い習ひぬ 世の中の 人はこれをや 恋といふらむ」(君とのに比べたら、今までの恋なんぞ物の数じゃない)もグッとくる。ただこれは、もとからもてる業平みたいな人限定か。

愛する人の心に一生残る口説き文句が言えたなら、例えふられても、いい負け方ができたって納得できるんじゃなかろうか。それを密かに心の内で、大きな一勝にカウントしてもバチは当たらないだろう。

ただ、この小説を読んでもわかるのは、口説くのには、常に相手への崇拝に近い尊敬が大事だということだ。上から気障にいくのはいけない。


今日ショックだったこと。作ったカレーが前回と全く同じだった。もっと言うと、前々回とも同じ味だったことだ。


まずかったわけではない。いろんなカレーのレシピやカレー以外の調理法からの引用を駆使した自信作。肉の処理はビーフシチューのように柔らかく仕上げるために赤ワインにローリエといっしょに半日つけ込み、粗みじんのたまねぎをこれでもかってくらい炒めて飴色にして加える。ニンニクととうがらしをじっくりいためて香りを立たせて、仕上げに隠し味で砂糖を入れる。ルーも2,3種類を混ぜて加える。すると、ちょっとした洋食店にありそうなくらいの香り高いカレーができる。


しかし、だ。ぼくが目指していたのはそもそも学校給食のカレーであって、複雑な香りはその点からすると実に不本意なものだと言っていい。あのニンニクと炒めたまねぎとスパイスの香りだけがする、ストレートなこれぞカレーといったあのカレーを目指して研究を重ねていたのに、いつの間にやら方向が逸れて、全然違うところで自分のカレーが完成しつつあるのがショックだった。


殊カレーに関しては、金額や人気ではその価値を測れない、考えてみれば不思議な食べ物だと思う。未だに学校給食のカレーより好きなカレーには出会ったことがないし、その次は中学の時よく食べたロイホのカレー。目黒や三宿などで有名なお店のカレーを食べたが、香りが良すぎてあまり好みではなかった。それよりもココイチのほうがカレー度では上な気がする。本場のインドカレーもおいしいけれど、あちらのほうが歴史は長かろうが、ぼくのカレー歴からすると新参者なので、もはや別の食べ物のカテゴリーに入っている。スープカレーはもうスープだ。


さらに問題なのは、巷でよく耳にする「おふくろのカレー」の記憶がぼくにはないことだ。両親が共働きだったのでいつも預けられていた祖父母の家ではほとんど和食だったし、中学に入ってからは夕食はぼくが作ることが多かったので、我流の、作るたびに味の違うカレーを食べることになった。中学を卒業してからはずっと親元を離れて生活しているので、母親の作ったカレーの味など全く覚えていないのだ。そのため、通常のように母親からおふくろの味のレシピを継承するということが一切なかったので、自分にとっての理想の失われたカレーを求めて果てしない旅を続けるはめになっている。


なのでぼくにとってカレー作りはとても奇妙な作業になっている。理想の味は作れないのだけどカレーが食べたいという欲求を満たすために、毎回絶対に満足のいくことのないカレーを全身全霊で作る。それでいつも、うまいんだけどなんか違うんだよなあって感想までをワンセットにして繰り返している。
雪が降っている。こんな日の長風呂以上に幸せなこともなかなかない。身体がお湯の温度に慣れると、少しずついろいろな考えが頭に浮かぶ。そんなときふと思った。今この頭の中で会話している声はなんだ?

ぼくは疲れると、自分の鼻が視界の邪魔になってしまうことがある。いつもはそんなこと気にならないのに、一度そうなると、意識が鼻ばかりにいってしまう。そういうわけで、今はこの声のことが気になって仕方がない。

基本的には自分の書く文章に近い言葉遣いで、ぼくの脳会議は開かれる。それはちょっとした感想だったり、愚痴だったり、自分の過去の行いへのつっこみだったりする。考えを整理するのもこの声が担当している。もしかしたら頭のいい人は、声などなく、もっと抽象的なイメージなり言語なりで考えているのだろうか。ぼくの場合は、この声を通すから、厳密さや瞬発力が頼りないのかもしれない。今はこのことを他人に聞いてみたい。

言葉遣い以外にも、声自体にも興味がある。自分の中に響く声は、外に聞こえる声とは違う。考えてみれば不思議なことだと思う。この声の存在を支えるものの心許なさと、それでも繰り返すことで根付かせてしまう習慣というものの強度。この声がぼくの考えるぼくの声だ。でも、ぼく以外はこの声を聞いたことがない。ぼくとの会話の時だけの声。じゃあそのときぼくの方はどんな声でそれに答えているのか?

とか考えるだけでけっこう時間は経つ。