機能脳科学に感銘を受けた人のブログ

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機能脳科学が好きな人のブログ

例えば、
犬と猫がいるとします。

犬はワンワン吠えてうるさい。
猫は自由気ままで言うことを聞かない。

そんなふうに思っていたとしましょう。

でも、
「同じ動物」として見たらどうでしょう。

「あぁ、同じじゃないか」と、
少し許せる気がしてきませんか?


見る視点を一段上げてみる

犬と猫を
イヌ科・ネコ科で見ると違いが目立ちます。

でも、
哺乳類として見れば同じです。

さらに抽象化すれば、
生き物として、
もっと言えば存在として同じ。

極端に言えば、
世界はみんな同じ穴のムジナ
とも言えます。


反応の仕方に共通するもの

この「受け止め方」は、
さまざまな分野に共通しています。

武術、演劇、コミュニケーション、禅。

たとえば、

  • 合気道

  • インプロ(即興演劇)

  • スコトーマの扱い方

  • その都度、解決策を考えて今を生きる姿勢

これらに共通するのは、
まず受け入れてから動く という点です。


「Yes, And」という普遍性

心理学の世界でも、
「ありのままを受け入れてから、どうするか」
が大切だと言われます。

即興演劇で有名な、

  • Yes(まず受け入れる)

  • And(その上で展開する)

という考え方は、
どこか普遍的な原理のようにも感じます。


でも、創造の世界では話が変わる

ところが、
それだけが全てではありません。

創造の世界では、
否定や破壊 がなければ
新しいものは生まれません。

一度すべてを壊し、
リセットして、
そこから考え直す。

破壊と創造は、
常にセットです。


日本人の得意分野

日本は、
異文化を受け入れ、
自分たちの血肉にするのが上手な民族だと言われます。

島国という背景もありますが、
「否定しきらない曖昧さ」を持っています。

そこに、
統合する力 が加わったとき、

禅が示すような
静かで深い幸福に
近づけるのかもしれません。


世界は、
分けて見るほど対立が生まれ、
統合して見るほど静かになります。

どの視点を選ぶか。
それもまた、
今を生きる私たちの選択なのかもしれません。

学校では教えてくれない「答えのない問題」

学校で教わることの多くは、
答えのある問題 です。

正解が用意されていて、
そこにどう辿り着くか。
そのための問題解決能力を鍛えます。

ところが――
社会に出ると、戸惑うことになります。

答えのない問題が、あまりにも多い。


人生に「正解」はない

人生そのものには、
明確な答えはありません。

その瞬間に感じたことを
「答え」にして生きることもあれば、
あえて考えない、という選択をすることもあります。

どれも間違いではありません。


コップの水の話

ここで、よくある例え話を。

目の前に、
水が入ったコップがあります。

これを見て、

  • 半分しか入っていない

  • 半分も入っている

  • 水じゃなくてジュースじゃない

などと考え始めると、
いくらでも解釈は広がります。

でも、
どれが正解かは決まりません。


見方を変えると、答えはシンプルになる

では、こう考えてみたらどうでしょう。

「コップに水が入っている」

それだけです。

物事を細かく、具体的に、
複雑に考えていくほど、
最終的には矛盾に行き着きます。

一方で、
視点を一段上げて抽象化すると、
問題自体が消えてしまうことがあります。


抽象化の先にあるもの

物事を突き詰めて抽象化していくと、
仏教でいう「空」に近づいていきます。

別の視点から見れば、
世界はランダムに見えるかもしれません。

それでも、
一つ上の視点 から見ると、
不思議と問題が解決されることがあります。

コップには水がある。
それ以上でも、それ以下でもない。


人生も同じかもしれない

人生でうまくいかないことがあっても、

「それが人生だ」と捉えると、
「あぁ、生きているんだな」と思えてくる。

恋愛がうまくいかなければ、
「修行中なんだな」。

仕事がうまくいかなければ、
「もっと成長する段階なんだな」。

シンプルに捉えることが、
実は一番の近道だったりします。


西洋と東洋の違い

西洋は、
言語化し、分解し、論理で説明していく文化。

東洋は、
統合的に、感覚で捉える文化。

医学や哲学、
デカルトの三段論法を見ても、
この違いははっきりしています。

物事を具体化しすぎると矛盾が増え、
抽象化していくと、
悩むこと自体が馬鹿らしく感じてくる。


答えを探すより、
視点を変える

それだけで、
人生の見え方はずいぶん変わるかもしれません。

価値観は一つじゃなくていい時代になった

最近、
「一つの価値観で生きなくてもいい時代」
になってきたと強く感じています。

これは本当にすごい変化です。

ただ一方で、
その自由さに戸惑っている人も
まだまだ多いのではないでしょうか。


自由が増えるほど、人は選択を迫られる

自由が与えられるということは、
同時に 選択を迫られる ということでもあります。

何を選ぶか。
どう生きるか。
どの価値観を基準にするか。

すべてを
自分の基準で決める必要が出てくる

ここで重要なのが、
「社会の洗脳」に気づいているかどうかです。


日本人に染み込んだ価値観

日本は、
儒教的な価値観をベースにした社会です。

・我慢が美徳
・空気を読む
・集団に合わせる

こうした考え方の中で生きていると、
それがあまりにも“当たり前”になりすぎて、

それが本当に自分の望む世界なのか
分からなくなることがあります。


資本主義という前提

資本主義も同じです。

お金のために働き、
お金のために時間を使い、
気づけばお金のために人生を終える。

お金自体は、
ただの紙切れや数字にすぎません。

それでも、
それが多いか少ないかで
人生の自由度や楽しさが大きく変わる。

この前提に、
疑問を持たないまま生きている人も多いはずです。


問題は「自由」ではなく「情報の少なさ」

何が言いたいかというと、

自由になったのはいいけれど、
選択するときの判断材料が圧倒的に少ない
という問題です。

普通に生きていれば、

・資本主義
・儒教的価値観
・親や周囲からの刷り込み

これらに気づかないまま、
「それが正しい」と思って従うことになります。


一度、立ち止まって“観る”

だからこそ必要なのが、
一度、止まって観ること

仏教には「止観(しかん)」という考え方がありますが、
情動だけで物事を決めていると、
本当に大切なことを見落としてしまう。

そして後になって、
「あのとき気づいていれば…」
ということも、決して珍しくありません。


知ったうえで選ぶという自由

少なくとも、

知ったうえで従う
という状態は、洗脳とは違います。

それは
「自分で選んでいる」状態だからです。

完全に自由になることは難しくても、
どの価値観を採用するかを
自分で決められているだけで、

人はずっと
自由意志に近い場所で生きられる ようになります。