伝統的七夕とその関連行事について | カタギリノエンレイソウ広報

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まさに暑くて寝苦しいこの頃ですが、このたび、本日は暦についての話題をお送りします。

伝統的七夕

今さらこんな時期にたなばた!?と驚いていらっしゃる方がいますが、今ここでゆっくりしているわけにはいきません!あなたは、伝統的七夕というものを知っていますか…!

七夕
七夕 (しちせき、たなばた)は、節句のひとつで、7月7日に行われる行事のこと。双七 (そうしち)ともいう。

もともとは、他の節句とともに、太陰太陽暦の日付に従って行われた行事ですが、日本では明治5年(1872)の改暦の影響により、正月や節句を含む年中行事が太陽暦 (新暦、グレゴリオ暦)の日付に従って行われることも多くなってしまいました。しかし、中国・台湾・朝鮮半島などでは今でも太陰太陽暦 (中国暦、農暦、旧暦)の日付に従って伝統行事が行われています。

中国の南北朝時代の『荊楚歳時記』には、7月7日、牽牛と織女が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったという記述がある。古代中国の前漢の采女が7月7日に7本の針に糸を通すという乞巧奠 (きこうでん)の風習 (『西京雑記』)と、『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」にある織女と牽牛の伝説が結びついて、現在あるような七夕のストーリーの原型が生じたといわれています。六朝・梁代の殷芸 (いんうん)が著した『小説』には、「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」という一節があり、明代の馮應京が著した『月令広義』にも引用されているため、六朝時代には七夕の伝説が現在とほぼ同じ型になったと考えられます。この伝説は、「天帝の娘で機織りの仕事にたけた働き者の織女と、川の西岸で牛を飼っていた若い夏彦が、晴れて夫婦となることを認められたが、夫婦生活に浸るあまり、機織りも牛飼いもしなくなったために、天帝の怒りによって二人は川を隔てて東西に離された。ただ年一度、7月7日に限り、川をわたって織女が夏彦に会うことが許された。」という内容であるが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至り、地方劇で上演され、戯曲の題材となっていきました。また、7月7日に降る雨のことは「催涙雨」(さいるいう、洒涙雨)と呼ばれ、織女と夏彦が流す涙といわれています。

日本では古来の棚機津女 (たなばたつめ)の伝説があり、中国で行われた行事の伝来に伴って、「たなばた」(棚機、棚幡、七夕)と呼ばれる行事が成立したといわれています。奈良時代から、相撲御覧、七夕の詩賦、乞巧奠 (織女に対して技芸上達を願う祭)などが行われており、宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺し、五色の糸をより合わせたもので針の穴を貫く行事が行われていました。さらに、一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇が庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈る行事も行われていました (星祭り、二星会合)。貴族の邸では願い事を梶 (かじ)の葉に書く風習もあったといわれています。七夕飾りの風習は江戸時代に成立し (6月末の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹にちなむ)、短冊に願い事を書き笹竹に飾り、短冊等を付けた笹竹を屋上に立てるものであったものが、明治以降に軒下に飾る方式に変わっていったものと考えられます。また、笹竹の葉を海に流す風習もあります。なお、七夕の祭りは一般的な神事と同じく「夜明けの晩」、すなわち7月6日の夜更けから7月7日の早朝にかけて行われていたそうです。陰暦7月6日の日暮れ時には半月状に欠けた月が南西の空に出ていて、夜遅くになって月が沈み、その頃には天の川、牽牛星 (アルタイル、わし座の恒星)、織女星 (ベガ、こと座の恒星)の三つが天頂付近に上り、陰暦7月6日の深夜から7日の明け方にかけての時間帯において見やすくなるようです。なお、陰暦6日や7日の月 (月齢5~6に相当)が夜遅くになって沈むとき、半月状に欠けた月の明るい部分が地平線側にくるため、その様子が船のような形に見立てられたそうです。

なお現代の中国では、「愛情節」と呼ばれ、今や恋人同士のデートがこの日に大々的に行われている状況となっています。これも上記の織女と牽牛の伝説にあやかったものですが、今や七夕は商店にとっての販売促進の一大商機となっており、伝統的な習俗は廃れ、人々の七夕に対する情熱は西洋の舶来品の「情人節」(バレンタインデー、グレゴリオ暦の2月14日)とは比べ物にならないものとなってしまいました。台湾や香港でも西洋文化の影響を受け、七夕の状況は憂うべきものとなっています…。

中華圏における七夕の伝統習俗として、西南一帯にみられる爪染め、膠東地方や広東地方の七神姐崇拝 (拜七姐)などがあるそうです。

新暦の七夕
日本の伝統行事は、正月やお盆、五節句 (人日・上巳・端午・七夕・重陽)を含め、もとは太陰太陽暦の日付に従って行われていました。この太陰太陽暦は、各月が朔 (さく、太陽と月の視黄経が一致する事象)の瞬間を含む日に始まり、一年が立春 (二十四節気の一つで、太陽が冬至と春分の中間点、すなわち視黄経315°に位置する瞬間)に近い朔の日に始まり、それぞれの月名が二十四節気の各中気に関係づけられ、中気が入らない適当なところに閏月を設けて月名と季節の関係を調整するものであり、月名と季節の関係については、「春分 = 2月」、「夏至 = 5月」、「秋分 = 8月」、「冬至 = 11月」といった関係が、飛鳥時代 (7世紀)から明治初期 (19世紀)に至るまで、基本的に保たれていました。

ところが、明治5年(1872)の11月に、太陰太陽暦を廃止し、多くの欧米諸国と同じ太陽暦 (グレゴリオ暦)を採用することが決定され、明治5年の12月3日を明治6年1月1日として改められたために、月名と季節の関係が狂ってしまいました。その影響で季節感がずれ、それまで「暑さも盛りを過ぎて、涼しくなり始める頃」であった7月が「梅雨が明けて、ますます暑さが増していく頃 (季夏、酷暑)」にずれ込み、それまで梅雨明け後、立秋の頃の行事であった七夕の日 (7月7日)が、小暑の頃、梅雨の時期にずれ込んでしまい、晴天になかなか恵まれなくなってしまいました

さらに、月の満ち欠け (朔望)と日付が無関係になったため、太陽暦 (新暦、グレゴリオ暦)の7月7日の夜は、たとえ空が晴れていたとしても、年によっては月明かりの影響でほぼ一晩中天の川が見えないということもあります。平成21年(2009)や平成29年(2017)、令和2年(2020)、令和10年(2028)などはまさにそのような年にあたり、夏至の当日かその数日後に朔 (新月)となれば、7月7日は望 (満月)に近くなり、大都市の街明かりがなくとも、月の光は淡い天の川の光をかき消してしまうでしょう。逆に、平成17年(2005)や平成25年(2013)、令和6年(2024)などは7月7日が朔に近く、人里離れた農地や山林などにおいて運よく晴天となれば、天の川の光がうっすらひしめく最高の星空が存分に楽しめるでしょう。

伝統的七夕
国立天文台では太陰太陽暦 (旧暦)の7月7日を指して「伝統的七夕」と呼び、その新暦 (グレゴリオ暦)による日付を広く報じています。上述のとおり、太陽暦 (新暦、グレゴリオ暦)の7月7日では「たいてい梅雨のさなかでなかなか星も見られない」「たとえ空が晴れていたとしても月明かりの影響で天の川が見えないことがある」といった不都合が生じることから、平成13年(2001)頃から、陰暦7月7日に相当する「伝統的七夕」の日 (「処暑 (太陽黄経150°)の瞬間を含む日かそれより前で、処暑に最も近い朔の瞬間を含む日」から数えて7日目)にさまざまな活動を行うようになりました。

伝統的七夕の日付 (グレゴリオ暦による)は以下のとおり。処暑の日付が8月22~24日のいずれかにあたるため (19世紀~28世紀において)、伝統的七夕の日は大部分の年で新暦8月にあり (7月になるのは19年に1回あるかないかの程度)、早い場合7月30日に、遅い場合8月30日になることがあり得ます。特に、太陽暦の7月7日が満月に近い年では伝統的七夕の時期が遅くなる傾向があります。
伝統的七夕

令和4年(2022)の伝統的七夕の日は8月4日である。

お盆
七夕の節句に関連する年中行事としてお盆 (盂蘭盆会、盂蘭盆)があり、日本古来の祖霊信仰と仏教が融合したものとされています。もともとは陰暦7月15日の行事として行われていたのですが、上述の改暦の影響で明治6年(1873)以降は太陽暦 (新暦、グレゴリオ暦)の日付に従って行われることが多くなりました。東京や横浜、静岡、栃木、函館、鶴岡、金沢などは新暦7月15日に行う一方 (東京盆)、他の多くの地域では農事上の都合で新暦8月15日に移して行っている (月遅れ盆)ことが多い状況となっています。そのため、いわゆる「お盆休み」も、太陽暦の日付に従って8月中旬に行われることが一般的で、学校の夏休み期間と重なる他、一部の公共交通機関 (路線バスなど)が曜日にかかわらず休日ダイヤで運行する期間をこの時期に設定されたり、多くの企業がこの時期に休業期間を設定することも多いようです。この「お盆休み」の風習も江戸時代には既に定着していた連休で、明治5年の改暦以前は陰暦7月14日~16日に行われていましたが、明治6年以降はお盆が法定の休日から除外されたため、官公庁にはお盆休みが存在せず (年末・年始の休業期間はあるが)、金融機関・証券市場も平常通り業務が行われています。明治6年以降、7月・8月ともお盆が法定の休日となったことはなく、平成15年(2003)以降においても、年により海の日の祝日 (7月第3月曜日)が東京盆の7月15日になることがある程度となっています。

なお、沖縄などはお盆の行事を陰暦7月15日に行う風習がある他、中華圏では中元節、朝鮮半島では百中という伝統行事が陰暦7月15日に行われています。伝統的お盆の日である「陰暦7月15日」は伝統的七夕の日 (陰暦7月7日)から数えて9日目であるため、太陽暦(グレゴリオ暦)による日付は8月7日から9月7日までの間で変動を示します (令和4年(2022)の伝統的お盆の日は8月12日)。