○きっかけ

 実家では毎年年末になると餅つきを行っている。しかしながら、餅つきのいわれをよく知らないまま実施してしまっている。これを機に餅つきについて調べることで、今後の餅つきとの付き合い方について見直したいと考えた。

 

○餅つきとは

 日本には稲作信仰というものがあり、米は神聖な食物だとされてきた。そのため、米から作られる餅や酒はハレの日に口にするものと考えられてきた。例えば、お正月だけでなく、婚儀やあらゆる節句の際にもこれらを口にするがことが多い。(菱餅や柏餅、月見団子等も稲作信仰に関連するという説もある。)当方の地域では、1歳になると一生餅を担ぐ風習や、子どもの日に餅つきをする風習がある。

 とりわけ、お正月の餅は特別な意味を持つ。お正月には歳神様がお越しになり、我々に年魂を授けてくれるとされた。年魂とは、生命エネルギーのようなものとされている。この年魂を目に見える形で象徴したものが’鏡餅’とされている。なぜ’鏡’かというと、神聖な鏡の形を模して丸くしたからと言われている。その鏡餅にお正月お越しになった歳神様が宿り、鏡開きの際に我々が口にすることで、年魂のエネルギーをいただくことができるとされた。

 

お餅を重ねるのは’円満に歳を重ねる’という意味から。

 

○餅つきの実施

 実家で蒸かしあがった米を少量分けてもらうことにした。ボールの中にもち米をうつし、主人と二人ですりこ木を用いて見よう見まねの餅つきを行った。一見すると簡単な作業なのだが、米の粘りが強く一人ではできない。すりこ木で搗く係と、ボウルを抑え、水の調整をする係に分担して行うと、10分程で手搗きの餅ができた。

 できたものは餅とり粉を広げた場所で薄くのばし、冷めてきたら食べやすい大きさにカットする。この作業は主人が行ったので苦労がよく分からない。関西の方では切らずに食べやすい大きさに丸めることもあるらしい。

 簡易的に行った手搗きの餅だが、食べてみると機械で搗いたものとは一味違うような気がした。それは達成感からくる気持ちの問題なのかもしれない。はたまた力加減や微妙な水加減のおかげなのかもしれない。

 ここまでやっておきながら、自分たちが食べる分の餅を作って満足してしまい、鏡餅を作るところまで気が回らなかった。歳神様の依り代がなく、歳神様の恩恵が上手く受けられないかもしれないと今更になって悔やまれる。

 

○ふりかえり

 毎年餅つきをする理由を父は「みんなが集まって楽しいから。」と言う。機械搗きになっても確かに餅つきは一人ではできない。母が洗米をして、父が機械で餅を搗き、弟ができた餅を伸ばして成形する。(あれ、私何もしていないな。)できあがった餅は切り分けて方々の親戚に年の瀬の挨拶がてら配って歩く。餅つきが人と人とのつながりが感じられる大切な行事であることを再認識した。

 鏡餅の製作もいつかはやってみたいが、鏡開きについてはいろいろと疑問がある。固くなったお餅を小さくして口にするのがいいとされているが、そんなにお餅は日持ちするものなんだろうか。また、当方の地域では鏡開きをする風習が弱いように感じている。実際に、実家や親戚の家で行われたことはない。その点についてもより見聞を広げることができればと思う。