1995年1月17日早朝 淡路から神戸に掛けて大きな地震が襲った
このシリーズのブログでは、震災に遭った時の工夫を記録する.
トピックについて、其々書いているため、
他のトピックとの時系列とは違っているのは、ご容赦願いたい.
17日 兄弟でそれぞれ移動し、18日の早朝に全員が揃った.
(前回:移動などの経緯)
家の下敷きになってしまった祖母の救出活動を兄弟でやったが、残念ながら生きての救出はできなかった.
阪神大震災の現場では、まず、生きている自分達にとって、
自分自身の生命を守るための行動を優先させる必要があった
ヒトの生命を守るため最優先にさせる(最低限の)事は、
1.食料・飲料の確保
2.風雪(1月で気温が低かった)から体温を守る
3.衛生管理(お手洗い、手洗い、消毒、感染予防など)
だろう。
当時、NTTが電話回線を全て遮断していて、公衆通信手段を持たない人々にとっては、身内との連絡さえもままならなかった.
(現代の様に携帯電話も普及していなかった. 携帯電話も、こういう時は、電話会社によって、遮断される事を知っておくべきです)
情報も何もない状態の現場では、自己完結できる様に行動するしかない.
つまり、戦場で孤立している状態と同じだ.
自分とその家族、ご近所の人達(中には、幼稚園生や小学生も結構いた)ともども、まずは、生き抜くための努力をしなければならない.
自己権力や金儲けにうつつを抜かしている政治家や経済界の面々なんて、絶対に頼りにはできないことは、電話回線が使えなくなったことで証明済みだった.
1(食料・飲料)の確保
ヒトが生存してゆくためには、何と言っても、飲料水の確保が大切.
あらかじめ、保存してあれば良いが、ない場合には、その場で何としてでも入手しなければならない.
阪神淡路大震災の時、
ローソンでは、手持ちの食料品や水類を、いつもの価格で品物がなくなるまで、販売を続けてくれたので、何とか水を買えた人も多かった.
一方で、ベンツやBMW御用達の、高級食材店は、震災になった直後に、
ペットボトル2L入り 一本 5,000円
で販売をしていた.
(参考:ローソンだと145円くらい)
こういう時って、やっぱり、その会社の世間に対する考え方がよく出てくると思いませんか?
「他人の不幸は自分の幸福」「ケツの穴の毛までむしり取れ」というような発想で、ひたすら金儲けに勤しんでいる会社って、世の中結構あるんですよね.
とりわけ、ここ20年ほどの拝金主義に陥っている日本では、そういう価値観に違和感を覚えない(あるいは、諦めている)人々が多くなっているように感じる.
うちでは、
弟達の努力もあって、当面、食料に関しては、自己完結できる道具、水・燃料などが揃っていた
しかし、それでも、心配だったので、
私の水の確保法:
震災よりも5年ほど前に、祖父の葬儀があった.荼毘にするための火葬場の入り口近くに、竹のトユを通し、六甲山の湧水が流れ落ちている手洗い場があったのを覚えていた.
墓場にお参りに行くときなど、手洗いに利用していたことを思い出した.
車にプラの衣装ケースを積み、その中に90Lのゴミ袋を何枚か入れ、(日中は、交通渋滞で自動車が動けないので)夜中に、墓場脇の手洗い場に行ってみたら、震災後も六甲山からの湧水が湧き出していた.90Lの袋に軽く2袋分ほど(150Lほど)を一回で汲んでくることができた(すごく時間がかかったのだが).
3日に一回程の頻度で、夜中に、その湧水場に、水をもらいに出かけることにした.
持ってきた水は、フィルターを通して飲料にもできたし、日中は、お湯に沸かして、手を洗ったり、体を拭いたりするのにも利用してもらった.
ご近所にも配ることができるし、これで、当面の緊急時の生存を確保するだけのインフラを準備することができた.
震災現場では、インフラが整ったので、先ずは、一升分のご飯を炊いた.
壊れた家には、ある程度のお米のストックもあったので、ご飯を炊くことは容易だった.
一升分のご飯で、たくさんのおにぎり🍙を作り、ご近所の人達を含め、周囲にいた人達、皆に配った.
この方法で、とりあえずは、数日分の食事が確保できる環境が整った.
お米は、おにぎりにすると、配りやすいし、食べやすい.少量しか食べない人には、二食分の食料ともなし、食べかけのおにぎりを他人が食べることは稀でしょう.
ということで、それぞれに食料を配る際は、おにぎりにしておくのが皆に幸せ.
御影近辺では、(長田区のような)火災が起きなかったので、全壊(倒壊)した家の台所付近を探索することで、保存食や缶詰などを大量に堀りだす事ができた.
震災の混乱の中、
うちの両親はじめ、近所の人達は、前日の震災直後から、何も食べていない、飲んでいない人が多かった.
御影の近所(うちの町内会)では、ご近所で、力のありそうな人達は、倒壊した家からの救出作業を17日の1日中やっていたからだ.
壊れた家に閉じ込められた人達を、生き残った人達で、順番に救助して回っていたのだ.
それでも、救助しきれなかった家もあった.
(余談) 食器について
震災では、多くの瀬戸物がわれてしまい、食器がほとんどなくなっている場合が多い.こんな時は、平はプレートにラップをかけて、即席食器にして使う.
食器洗いの水も節約できる.
使い終わったラップ食器は、ラップを剥がすだけで、また、次のラップを掛ければ良い.
ただ、ラップ(あるいは、ラップ代わりのビニール袋)の消費が多いので、予備を手に入れれるようにすることが必要.買い置きがあれば、しばらくは安心です.
2(風雪から体温を守る)については、
両親が住む、離れの建物は、建物自体は倒壊していなかった.
建物自体が基礎から50cmほど動いてしまっていたので、水道管やガス管などが引きちぎられてしまっていた.
地震と発生時、両親は二階の寝室で寝ていた.
地震によるすごい揺れの後、それに続くメキメキという音と共に、周囲の建物や家が潰れ始めたらしい.
一旦、揺れが収まった後、家の二階から、路上をみると、寝巻きのまま、家から飛び出して寒そうにしていた人達が何人もいたという.
母は、二階の寝室の押し入れにしまってあった、客用の寝具の掛け布団(軽いため)や毛布、タオルケットなどを、あるだけ全部、窓から道路に投げ落とした.
路上に避難した人達が、それを使って暖を取れるようにと考えたそうだ.
投げ落とした寝具は、直ぐに誰かの手に渡ったようで、明るくなったら既に家の前の通路(幅80cm程の狭い通路)からは無くなっていたそうだ.
(この寝具は、半年くらい後の後日、半分位は返却されてきた)
家の中は、家具や食器、冷蔵庫などが倒れたり、動いたりして、危険物だらけだった.
床に散乱したガラス・瀬戸物・グラス・カップなどを片付け、掃除をする必要があった..
当時は、家の中でも靴を履いておかなければ危険な状況だった.
使えそうな、残った家具・家電を元の位置に戻し、部屋の中に、雨風を避けて生活できる空間を確保.
時々、余震があるので、いつでもすぐに飛び出せるように、皆、服を着たまま、靴を履いたまま寝た(休んだ).
1月の寒い時期だったので、
私は、壊れた母屋の建物を破壊し、燃料にできるよう薪に準備し、家の前(庭)に、石やブロックを並べた簡易な炉を作り、焚き火をして大量のお湯を沸かした.
お湯は、汚れた手や顔を洗うのにも使えるし、お湯を入れたペットボトルで、湯たんぽ代わりにして、暖を取るのにも使えた.
生き残ったご近所の人達や、(建物は残っていた)マンションの人達も、マンションでは、水もお湯もなかったので、このお湯を利用して、温まったり、体を拭いたりした.
また、焚き火自体が、温まる事ができるので、周囲には、暖をとりにくる人達が、かわりばんこに取り囲んでいる状態だった.
この状態が2ヶ月ほど続いた.
3については、
下水管は、使える所が多かった.
神戸は坂になっていることもあり、流せば下水は下流に流れてくれて、詰まって逆流という話は聞かなかった.
しかし、お手洗いをフラッシュするための水がなかった.
御影近辺の住宅地では、道路脇に作られた側溝には、六甲山からの澄んだ綺麗な湧水が流れているので、所々で、側溝に板を入れて水を堰き止め、中水として利用している人達がたくさん居た. また、東に2km程のところを流れている住吉川(比較的大きな川)には、日頃から散策用にと、河川敷に降りる通路が何箇所もあったので、川の近所の人達は、住吉川の水を汲んで、中水用に利用していた.
実家の母屋には、昔から井戸があったのだが、震災後、井戸が枯れて、水がなくなってしまっていた.
六甲山系の麓である御影近辺は、地下水位が高く、3mも掘ると水が湧き出るような場所だったのに、その地下水がどこかに行ってしまっていた.
家の南側のお宅にも昔からの井戸があり、そこの井戸の蓋を開けてみたが、井戸の水は茶色に変色し、濁ってしまっていて、とても中水にも使うことができなかった.
地震があると、地下水系が変わって、井戸が枯れるというのは良く聞く話でもあったので、それほど不思議ではなかったが、利用できなかったのは残念だった.
なので、飲み水や中水(洗浄用の水)の確保は、かなり厳しかった.
避難所になっていた御影北小学校には、たくさんの避難者が押し寄せてきていた.
区役所の人や、学校の教員さん、PTAなどが避難所としての運営をしようと頑張っていたが、被災者が多すぎる事もあり、混沌とした状態でもあった.
とりあえず、雨風が凌げる建物の中に居られる.という事で、人々は安心感を得られていた.
たくさんの人が集まると、お手洗いの問題が生じてくる.
学校のお手洗いをフラッシュするため、プールに溜めてあった水を汲んできて、お手洗いの洗浄用に使っていた.
しかし、小学校のプールは、屋外にあり、少し離れていたので、お手洗い脇に、水槽を設置して、力のある健康な多くの人達が、バケツで少しづつ水を水槽まで運んでいた.
私達も、2日目の夕方から、時間がある時を見計らって、数十往復、バケツの水汲みを何回も手伝いに行った.
水道の復旧について;
神戸市は、すごい勢いで水道の復旧作業もしてくれたので、3月末頃には、主要道路の本管には、浄水が配水され出した.
しかし、個々の家や、路地の中の枝管の修理はされていなかったので、相変わらず、個々の家では水道を使うことができなかった.
メディアの報道では、「水道は復旧しました」と報道され、東京のスタジオでは、さも、各家々で水道が使えるようになったかの解説がされていたが、実際には、本管が復旧しただけで、各家庭では水道を使う事はできなかった).
御影の実家で、家の水道が使えるようになったのは、その年の7月中旬になってからだった.
7月中旬になり、家のお風呂が使えるようになり、父が、とても嬉しそうにお風呂に入っていたのを思い出す.
神戸市の努力により、本管に浄水が供給され始めた後、
私たちの家は、運が良かった事に、母屋へは、本管からの枝管が短かったので、地震の被害を免れ、本管への給水が始まったと同時に、枝管の水栓まで浄水が通ってきていた.
私は、倒壊した母屋に入る水道管付近を掘り起こし、元栓部分から家側の菅を取り外し、(愛知県のホームセンターで買い集めた)水道管や蛇口などを組み合わせ、地面から、水道管を1mほど立ち上げ、その先に、水平に蛇口を6つほど並べた「共同の水場」を作った.
建物の倒壊を免れたマンションの人たちも、マンション自体は(水道管が破損しているので)断水したままだったから、そこらへん近所一帯の人達が利用して、水を汲みにやってきていた.
離れの実家の水道管は、(家が動いてしまったため)ちぎれたままだったので、30mほどのホースを伸ばし、その水場から、家に裏手に臨時水道を引いた.
とりあえず、このようにして、
当面の、命を繋ぐための、応急的な対応はできた.
繰り返し書くが、
災害時に、第一に優先させる事は、
1.自分と家族の身の安全を確保すること
2.当面(救援が充実するまでの最低1週間)の飲み水を確保する事
3.当面(救援物資が届き始める最低1週間)の食料を確保する事
4.体温を保持するための環境を整える事
5.状況に対しての正しい情報を得る手段を構築すること(町内会でも、広報でも、ラジオでも何でも良いですが)
を先ず優先して準備することが大切だと考えます.
これは、災害に遭遇したら、すぐに考え、実行しなければならないこと.
少なくとも36時間以内には、ある程度の解決がされなければならない.
これによって、一段落した後に、その後の対策、等々を考えれば良い.