24.04/16 飛騨高山 宮川の用水 三町用水 | 田舎のあれこれ

田舎のあれこれ

信州信濃の「田舎のあれこれ」

この年の4月25日高山市を再訪したついでに
高山市図書館煥章館へより調べてみた
平成5年9月30日発行の「片野町史」145P~
片野用水・坂口用水、神明町用水、川原用水のことが記されていた
これによって分かったことを青ペンで追記する
高山は9時ころから雨が降ってきた
春の高山祭
「お疲れさまでしたゆっくりとお休み下さい」
という感じ
9時36分発
特急ひだ6号名古屋行
名古屋駅まで立ちっぱなしの
お客様がお見えになりそうなホームの混み具合
 
レジデンスホテル高山のお部屋から
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今日は高山市宮川の用水を訪ねる
主に訪ねるのは「三町用水」とその堰から取水している用水
読み方は「さんまちようすい」
捜すヒントは
『片野町(対岸は千鳥町)の五ケ村用水堰で取水
 宮川の右岸は三町用水 左岸五ケ村用水
『もう一つの水源は石浦にもあり』
 
ということでまずは上流の石浦団地付近を探索
その探索方法と言うのは実は簡単で
宮川に堰があるところを見つければよい
 
ただ苦労したのはその堰に近づく道が分かりにくいということ
大きな用水になると用水沿いに「管理用の道」がある
用水によってはその道が荷車から車が通れるよう
道路となり更に2車線となっていく場合がある
 
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合同井堰と三町用水取水場所
 
グーグルマップ 下方が北
宮川は上方から下方へ流れる
石浦橋下流170mに堰がある「合同井堰
(正しくは石浦堰堤 以下省略)
堰堤の左岸に白色の石碑の地図記号を記した
 
右岸から見る合同井堰
手前に見えるのが右岸の「三町用水取水口」とそのバルブ
向うが左岸「合同井」ではなく「五ケ村用水」
宮川左岸に移動
「合同井堰」である
ここで取水する「坂口用水(片野用水ともいう)は
三町用水を補うために坂口用水が延長され
昭和4年片野区と高山町との間で
「坂口用水組合」が設立された
合同井堰とその対岸に
坂口用水(三町用水に繋がる)取水口」が見える
合同井に近接したところに設置された石碑
辛うじて「合・・・」の文字が読め
「合同井・・・」と刻んであるのだろう想像する
また左下に小ぶりな字で「岐阜」と読める
坂口用水と五ケ村用水合同の堰と言う意味だろう
この石浦堰堤は昭和13年(1938)に
岐阜県耕地課により竣工した
記念碑
正面には「合同井堰竣工記念」
正面左下に「岐阜県耕地課」
左側面に「昭和十三年三月」と刻まれている
 
合同井取水口
五ケ村用水合同井と合同井の石碑
合同井堰近くの桜と石浦団地
 
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五ケ村堰堤と三町用水取水場所
 
グーグルマップ 下方が北
宮川は上方から下方へ流れる
昭和橋上流240mに堰がある「五ケ村堰堤
 
右岸の下流から見る五ケ村堰堤
手前に見えるのが右岸の「三町用水取水口」とそのバルブ
向うが左岸「五ケ村井」
右岸の上流から見る五ケ村堰
手前に見えるのが右岸の「三町用水取水口」とそのバルブ
向うが左岸「五ケ村井」と桜
 
宮川左岸に移動
五ケ村堰と
対岸が「三町用水取水口」 
手前が「五ケ村堰取水口」である
水色のバルブ、ゲートが三町用水取水口
三町用水路の上を
用水か沢か井水が流れ落ち三町用水と立体交差している
五ケ村堰取水口
五ケ村堰堤と桜
五ケ村用水は上流から流れくる阿矢谷川と合流
千鳥昭和公園手前の余水吐き
 
五ケ村堰堤から50~60mの開渠部分
下2枚は昭和橋下流150m付近
用水にしては珍しい落差がある
バルブがあり余水や工事の時など
宮川に放水する場所になっている
 
宮川へ放水する場所はかっての三町用水取水口
この用水の最初の取水口は桝形橋付近と言われるが
度々の出水で川底が下がり取水が困難となったため
山王保育園近くのこの場所がかっての取水口であった
用水にしては大きな落差が腑に落ちなかったが
こういうことならその落差もうなづける
その後昭和13年ころの出水でここの堰堤がながれ
更に上流の五ケ村堰堤を利用するようになった
 
良質な燃料として使われた「宮榾」は
この旧三町用水の井堰を利用して水路に流し込み
山王磧(かわら)で陸揚げして棚に積み上げ
高山の酒造業者や風呂屋・・・とあるが
 
かっては一之宮町から宮川を山王磧まで流し
三町用水の井堰から導いて宮榾を拾い上げたのではないかと
想像するが如何だろう
 
神明神社前の桝形橋付近の三町用水
家屋の下部を通ったり
というか家屋を作った際
管理者に許可を得て家を作ったものだろう
或いは縞鋼板が敷かれ通路になっている
日枝神社の大きな石碑が見える
右奥へ行くと桝形橋に至るT字路
 
その右手前の粋な家の玄関先には
三町用水が「桝形」のように流れ
縞鋼板が玄関に至る通路になっている
かっては縞鋼板ではなく木製の桁だったのだろうと想像した
 
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桝形橋について
かっての桝形橋は宮川上流から
桝形橋、中橋、鍛冶橋と三つの橋が城下町に在った
 
『金森氏6代の頃の城下町絵図である。図を作ったのは、城郭の石垣の正確さからして、金沢藩ではないかと思われる。金森下屋敷(現・高山陣屋)の前(東側)を用水が流れ、その前は厩、東に隣接して作事所がある。宮川に架かる橋は鍛冶橋、中橋、枡形橋が描かれ、細い引渡し橋が現・弥生橋の少し上流に見られる。今は無い橋である。
 凡例として、赤丸→御屋形寺院町屋通、黄丸→町通並道通、灰色丸→石かけぼた通、青丸→用水大川通が記される。
 街道を見ると、江戸街道が「此道上ヶ洞江戸へ出」、平湯街道が「平湯口信州上田出」、越中街道が「此道小豆沢口北国道」、国分寺前が「此道在江山田へ出ル」、郡上白川街道が「白川通り加州郡上へ出る」、尾張街道が「下原口尾州江出」と記される。』
『』は高山市図書館絵図解説から引用した
絵図を見ると「大洞口」の入口に当たる
この時代には桝形橋の記載はない
そして三町用水が描かれている
面白いのは三町用水の上に
「家」?が描かれていること
その家は「町並み」ではなく
戸建て住宅のようにも見えるが
如何だろう
宮川左岸陣屋側の用水には家は描かれていない
 
三町用水のこのあたり
今は道端であったり住戸の下になっている
 
『この図は前頁第15図と共通する記載があり、神明町通りの搗屋8カ所、道路の線形など類似する。矢嶋家旧蔵絵図である。
 江戸時代後期になると、空町の侍屋敷跡の耕地にも、島川原町の通りを中心に町家が増えている。また高山町の西側に隣接した家並は、花里町・七日町村の地内で町方と呼ばれ、建家人口は高山町、地処は村方の管轄下に置かれた特殊な地域であった。ここがすべて村方に返されたのは明治20年になってからである。
 幕府直轄地時代の、高山町絵図の年代を推定する上での目安にえび坂の改修がある。これは文化15年2月から文政元年6月までの4カ月間で、途中で曲がっていた坂を直線に変更する工事が行なわれた。この工事については「衣斐坂御普請出来形仕上り帳」によると、坂の上方長さ28間、平均巾4間、同深さ2間を掘り下げ、曲りの所は長さ5間、平均巾6間、同深さ5尺を掘り下げている。また坂の北側27間と南側に13間2尺、高さ平均27尺の石垣を積み上げている。
 えび坂改修の翌文政2年6月には中橋下手に始めて筏橋が架けられた。金森時代の桝形橋の記載はない。』
後に神明神社のところに橋をかけ「桝形橋」と銘じたようだ
 
『「飛騨国高山町安川通住伊書店」が発行した地図である。学校、公共施設、主要民間施設が記されている。
 横丁名等が記入されているのが、この地図の特色である。別院の「御坊坂」専念寺横の「専念寺横丁」空町の「欠の上」「文右エ門坂」、二之町の「聖横町」、下向町(本町3、4丁目)の「百軒長屋」、八幡神社(現八幡宮)前の「大典記念道路」「御旅横町」、宗猷寺下の「清水坂」、城山公園へ登る「城坂通」など、横丁名、坂名が表記されている。
 大名田村役場が花里天満宮の東北にある。城山公園には広瀬中佐銅像、日露戦役記念碑がある。
 学校は、名田町に「高山女子小学校、実科高等学校」、総和町(大字七日町)に「天の皮高山男子小学校予定地」、桐生町に「灘小学校」、城山に「男子小学校第二校」、馬場町に「男子小学校第一校」、三福寺町に「斐太中学校」が記される。』
 
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高山祭が終わった翌日でも賑やかな街中
雨も止んだ10時過ぎの中橋と市政記念館前
お土産をグリーンホテルで購う
善光寺参拝
寺院の門柱には
信州善光寺上人第121世本蓮社 誓玉書とある
ランチは麵屋伊吹
細めんにスープが絡まって美味しくいただけるが
スープが塩っ辛いのが難点
 
361号線
長峰峠、権兵衛峠を経て帰路に着く