21.06/23 神社仏閣巡り 国宝三重塔2基はじめ三重塔カルテット | 田舎のあれこれ

田舎のあれこれ

信州信濃の「田舎のあれこれ」

上田別所温泉4日目
 
まずは安楽寺
「  」内は安楽寺案内リーフレットより引用

国宝三重塔
「塔は本堂の裏を登った山腹にあり(全景写 真参照) 松の緑に映えて、重厚なたたずまいが とっしりと空間を支えている。 建立年代は、従来鎌倉時代末期、 又は、室町時代初期といわれ ていたが、用材の年輪年代測定により、鎌倉時代末期であることが判明した(右説明参照)。
建築様式は、 禅宗様(鎌倉時代に宋から 禅宗に伴って伝来した様式で唐様ともいう) 八角三重塔で、初重に裳階もこし (ひさし又は霧よ けの類) を付けた珍しい形式であるうえに細部もまた禅宗様の形式からなり類例が少ない。 
平成23年には、約60年ぶりに屋根(柿葺) の全面葺き替え、 及び約90年ぶりに相輪 (塔頭部) の補修が行われた。」
 
お泊りした七草の湯隣の
黒門からスタート
いつ見ても姿がよい槇
本堂
安楽寺案内
「建長(鎌倉の建長寺)と塩田(安楽寺)とは各々一刹により、 或は百余衆或は五十衆、 皆これ聚頭して仏法を学び、禅を 学び、道を学ばんことを要す云々。 これは大覚禅師語録 (建 長寺開山蘭道隆)の一節である。これにより安楽寺は、鎌 倉時代中期すでに相当の規模をもった禅寺であり、信州学 海の中心道場であったことがうかがわれる。 鎌倉北条氏の 外護によって栄え、 多くの学僧を育てていたこの寺も、北条 氏滅亡 (1333) 後は、 寺運も傾いて正確な記録も残らないが、 国宝、重要文化財等数多くの鎌倉時代の文化遺産を蔵して、 信州最古の禅寺のおもかげを残している。
また、当寺は安土・桃山時代に勅特賜・ 大光智勝禅師高山 順京大和尚により、同じく禅を標榜する曹洞宗に改められ、 現在に至っている。」
 
 
 
八角三重塔
八角三重塔
斜塔ではありません
カメラマンの腕が悪いので斜めに映ってしまいます
 
青木村
国宝 大法寺三重塔
「  」内は大法寺案内リーフレットより引用
「国宝大法寺三重塔  伊藤 延男
「大法寺三重塔は、「見返りの塔」という名で親しまれている。 この名は、塔の姿があまりにも美しいので、思わずふり返るほどであるという意か ら、つけられたのであろう。ではどうしてこの塔はそれほど美しいのであ ろうか。その秘密をさぐってみたい。 それがまた、この塔が 「国宝」に指定 されている理由をあきらかにすることにもなろうと思われるからである。 この塔をよく見ると、 初重が特に大きいことに気づく。 これがこの塔の 最も大きな特色である。 これは、二重、三重で組物を三手先といういちば ん正規な組み方としているのに対し、初重だけは、少し簡単な二手先にし たので、その分だけ平面が大きくなっているからである。 このようなやり 方は、この塔のほかに奈良の興福寺三重塔があるだけで、きわめて珍しい ことである。 塔の姿が平凡になりがちであるが、こうすると形に変化がつ き、おちついた感じが生じてくるまことにうまいやり方といわなければならない。
このように独特の意匠が用いられているので、かえって、細部ではほと んど特別な考慮がなされていない。 この塔は、墨書によって正慶二年 (1333)に造営中であったことがわかる。 これはちょうど鎌倉時代から南 北朝時代に移る過渡期に当っている。 このころには、装飾的な彫刻を各所につけるのが通例であるが、 この塔では初重中央間の簡単な整形以外、細部の装飾は一切用いていない。 まことにきまじめな手法をとっている。 し かしそれらにみられる手法は、 きまじめであるだけに、 正規のものであって、地方的なくずれが少しもみられない。 組物内部に書かれてあった墨書 によると、 天王寺大工四郎某のほか、小番匠七人が来ている。 天王寺とは おそらく今の大阪の四天王寺であろう。 地方的なくずれがまったくない のも、このように中央の工匠によって造営が行われたからであろう。
なお、この塔の美しさを論ずるには、 周囲 風との調和を見落すこともできまい。 塩田平を見おろすことのできる丘の中腹に立っているこの 塔は、その周囲をゆっくり歩くにつれて、さまざまな角度からながめられ る。 このように、平地を見おろす台地に塔を建てることは、中世の山地寺院では典型的なやり方であるが、建築の美しさもたしかにこういう配置の妙によって、倍加されているのである。 (文部技官工学博士)」

そんなんで
国宝三重塔にアジサイとサツキを添えてみた
 
国宝三重塔2基をわずか一日で参拝できるとは嬉しい限り
ともに素晴らしいお姿に感動
そして前山寺国分寺の三重塔も素晴らしかった
あらためて
 
 
前山寺未完の三重塔
 
国分寺 三重塔