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鼻息も荒く、「"マヤの一生"を再考します!」と宣言して、
はや半年

今日まで、私は何をしていたのでしょうか
何か意味のあることを成したか、
それとも、ただいたずらに時間を過ごしただけか。
ホントに、時間が経つのが早すぎて、恐ろしいですねぇ

"戦時下の犬たち①~③"が終了したところで、いよいよ、
"マヤの一生"(椋鳩十 著)の再考に入りたいと思います

【マヤの一生】 椋鳩十 著

 

いつぞやの、読んでもね~のに書いたあらすじを参照されたし
(※大まかな流れはこれであってます)
 

【マヤの一生・簡単すぎるあらすじ】・・・・・・・・・・・・・・・


マヤは椋家で飼われていた熊野犬で、椋家の他の動物達、
ネコのペルとニワトリのピピと仲良く暮らしていました。
マヤは3人の子供達のうち、次男に一番なついていました。
 

戦争が長引くにつれ、着るものや食べるものが不足するように
なると、犬を飼うことがぜいたくだ、という風潮が高まってきます。
そして、軍用犬以外は殺してしまえ、という命令が出ます。
 

子供達は、非国民と言われても耐えていました。
椋家の人たちは、マヤを守るために研究材料(訂正;物語を
書くための研究材料)にするためという助命の嘆願書を
出しますが、聞き入れられませんでした。

ついに、マヤは広場に連れて行かれ、太い棒で一撃を受けます。
目の前でマヤを殺された次男はショックで40度の高熱を出し、
寝込んでしまいました。
 

夜になって、「マヤの声がする」と次男が言い出しました。
熱でうかされているのだと思い、止めようとしますが、次男は
マヤを探しに行きます。
 

マヤはくつぬぎ石の上にあった、次男の下駄にあごを
乗せたまま、冷たくなっていました。
息を吹き返したマヤは、最後の力を振り絞って、懐かしい我が家に
戻ってきました。
そして、大好きな次男の匂いに包まれながら、絶命したのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

"マヤの一生"
は、椋鳩十が教員として赴任していた鹿児島での
体験をもとに書かれたもの、と言われています。

戦争の影が忍び寄る前の前半は、ニワトリのピピや、ネコの
ペルを飼うことになった理由、犬、ニワトリ、ネコという、異種の
動物たちが互いを家族と認めて仲良く過ごす様子、一家が
のびやかに、動物たちを愛でながら過ごす様子が、丁寧な
文体で描かれ、本当に、微笑ましいです

後半からラストに向けては、マヤを死に追いやった人々や
時代を責めるわけでもなく、読む人の情に訴えるわけでもなく、
ただ、淡々と、マヤの最期を描いていくのが、かえって辛い泣き3

あくまで物語ですから、恐らく、マヤが家に戻って息を引き取って
いたというシーンは、椋鳩十の創作でしょう。
撲殺人が、マヤの逃走を許すわけがないですし、書き手として、
飼い主として、せめて、マヤの最期は安らかであったらよかった、
そうさせてあげたかったという、椋鳩十の、命への深い慈しみが
そのような表現になったのだと、私は思います。

ちなみに、椋鳩十は、動物に関する作品を多く記し、優しい
眼差しで動物たちを観察する人なのですが、赴任先の鹿児島で
夏場にふんどし一丁で授業を行ったため、3か月で教員をクビに
なるっちゅう、おちゃめな一面もありました ←くれいじー

そんな、おもしろエピソードはいいとして。
再考すると言っても、ここに感想文を書くわけにもいかないですし、
物語の重要な局面だけ、解説する形をとりたいと思います
(ごめんなさい、死ぬほど長いです・・。)

【マヤの一生】 

◎当時の雰囲気

P.59
満州事変が起こったのは、昭和6年でした。これは、満州の、
ほんの一角に起こった、小さな、ごたごたくらいに、考えていました。
まさか、これが、大きな戦争にまで、発展していくとは、わたくしたちは、
考えませんでした。
そのごたごたが、時間をかけて、じりっ、じりっと、少しずつ、
ひろがっていきました。
それでも、わたくしたちは、そのうちに、こんなごたごたは、おしまいに
なるだろうと考えて、のびやかに暮らしていました。
ところが、気がついたときには、わたくしたちは、第二次世界大戦という、
はげしい戦争の中に、まきこまれていました。

P.66
わたくしたちのつっている頭上を、飛行機が、編隊をつくって、遠く、
南のほうに、飛び去っていきました。そういう飛行機をみるたびに、
つりざおを、放り出して「バンザーイ!」3人の子どもたちは
両手を空にさし上げて、力いっぱいの叫び声を上げるのでした。
わたくしの子どもたちは、戦争とは、勇ましいものというよりほかには、
わかっていないようでした。

解説)
当時の国民の多くは、食糧が乏しくなっても、身内や近所から
出征兵士が出ても、子供までが労働力となる事態になっても、
戦争をやっている実感が、ほとんどなかったと言います。
大本営の虚偽の戦果報告が功を奏していたのかもしれませんが、
実際に、戦争や日本軍の劣勢を意識したのは、東京大空襲を
はじめとする、米軍による本土空襲が始まってからだったそうです。

P.66は、昭和18年以降の様子、不足する食糧を何とか補おうと、
家庭菜園や、川魚釣りと、試行錯誤をしている一家の1コマ。

◎唾棄すべき人々

P.71
わたくしは、ある夕方、この町でもたいへんえらい人だといわれている
人の屋敷の前を、3人の子どもをつれて、とおりかかりました。
そこの主人は、年とった陸軍将校でした。
町の公の集まりがあるときには、胸いっぱいに勲章をさげて、
ぐっと、胸をはってやってくるのでした。
「あのおじいさん、えらい将軍さまだぞ」
子どもたちは目を見はるのでした。
町の中心人物のひとりで、この人からも「割りあて以外のものを、
横流しで、手に入れるな」という演説を、何回か聞くのでした。
ところで、その人の家から、スキヤキのにおいが、ただよってくるのでした。
そのころは、スキヤキにして食べるほどの肉は、けっして、手に
はいらないはずでした。
たとえ、町で、どのように地位の高い人でも、割りあて以外のものは、
お金の力で、こっそり手に入れるか、地位を利用して、ごまかすか
しなければ、あるはずがなかったのです。
家の内で、こっそり煮ているつもりでも、スキヤキのにおいは、
遠くまで、ただよってくるのです。
「ああ、目がまわるほど、うまそうな、においだなあ」
「ぱくっ、ぱくっ、ぱくっ!うう、うまい」
次男は、はしで、はさんで食べるまねをしました。
「えらい人には、なんでも、割りあてが、たくさんあるのかな。
この家からは、いつも、こんないいにおいがしてくるよ。とうさんも、
もっと、えらくなって割りあてたくさん、もらいなよ」
三男は、こんなことをいうのでした。
「バカ者!」
わたくしは、とつぜん、大きな声で、どなりつけました。
3人の子どもたちは、ほんとに、びっくりし、キョトンとして、
たがいに、顔を見合わせるのでした。
わたくしは、ここの主人のように、えらそうに見える人たちで、
陰にまわって、こそこそと、いやしいことをやって、平気で
暮らしている人たちを知っていました。
そういう人たちをケイベツしていました。
わたくしは、子どもたちのことばを聞いてるうちに、そういう人たちに、
急に、怒りを感じたのでした。

解説)
「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」「滅私奉公」といった戦時中の
国民精神総動員のスローガンのもと、国民は生活のすべてに
おいて我慢を強いられたわけですが、このようなエピソードは
本当によく聞きます。
最近のドラマ"天皇の料理番"でも、天皇陛下のおかずが
メザシ1本たったときに、出張依頼で訪れた陸軍・皆行社の
厨房には豊富な食材が揃っていて、佐藤健扮する秋山篤蔵が
激怒するシーンがありましたね
史料としては提示できませんが、上位の軍人ほど優先されて
いたのでしょうし、国民への訓示とは真逆のやましいことを、
裏で行っていたのも、事実なのでしょう。
「非常時ゆうてもあるところにはあるもんや。軍人さんばーっかり
贅沢して!」by西宮の叔母さん("火垂るの墓"より)

※余談ですが・・、
戦後間もなくの話、裁判官という立場から、ヤミ米の購入を
拒否し、食糧管理法に沿った配給だけに頼る生活を
厳格に実践していた山口良忠は餓死(栄養失調)しています。
清廉潔白な生き方をしても、法は命の保証をしないって事例。

◎時期の特定

P.79
「この食糧のとぼしいときに犬など飼っているのは、ぜいたくだ。
地区ごとに、それぞれ日を決めるから、きめられた日に、飼い犬を
種畜場の広場に、つれてくるように・・。」という通知が、とつぜんに
とどきました。

P.80
ところがその広場に、犬をつれてこいということは、その広場で、
犬を殺すということだったのです。

そこで、わたくしは、その日のうちに、
「犬名 マヤ
右の犬は、やがて、命をみ国にささげて、戦地に向かう、青少年の
ために書く、物語の研究材料でございます。よって、手許において
飼うことを、ご許可くださいますよう、お願い申し上げます。
警察署長殿」
という、書類をつくって、署長さんのところに持っていきました。

P.81
そのころは、まだ「犬を出せ、出せ」と、いってくるだけで、むりに、
ひっぱっていこうとはしませんでした。

解説)
P.79の文の後に、種畜場は、町はずれの大河のそばにあり、
その広場にはクローバーが密生していて、魚釣りで
疲れたときに、この広場のクローバーの上に寝転がって空を
見上げると、特攻隊の飛行機や、空襲にやってきた敵機が
見えた、という記述があります。
日本海軍連合司令部が航空機による全機特攻の方針を決定
したのが1945(昭和20)年2月、連合国軍が本格的に日本本土を
爆撃しはじめるのが、日本が絶対国防圏(マリアナ・パラオ諸島)を
失った後の1944(昭和19)年末頃、"犬の供出命令"が通達された
のが、1944(昭和19)年12月。
このとき、日本軍の飛行機が特攻隊のものとわかったのは
何故だろう?という疑問はあるのですが、実際、全軍特攻の
方針より以前に、神風特別攻撃隊の1944(昭和19)年10月25日の
レイテ沖海戦の大戦果以降、国民に向けて大々的に宣伝されて
いたし、陸海両軍による特攻作戦は断続的に行われていたので、
まぁ、特に矛盾はしませんね・・。
また、深読みすれば、日本軍が捨て身の攻撃を行っているときに、
連合国軍は余裕で日本に飛来して、都市爆撃を行っていたという
対比なのかもしれませんゼロ戦

警察署長、部落の世話役の人、おまわりさんが代わる代わる
自宅を訪問し、マヤを差し出すよう言ってきますが、この段階では
強制性はなかったようです。
マヤの助命嘆願書を出しに行くという記述からも、切迫した様子は
伝わってこないので、1944(昭和19)年末~1945(昭和20)年初頭と
推測します。

◎愛犬家の抵抗

P.84
町の犬で、まだ残っているのは、わたくしの家のマヤと、
ひとり暮らしのオキヌ婆さんとこの犬と二頭だけになりました。
オキヌ婆さんには、ふたりの子どもがありましたが、ふたりとも、
兵隊にとられて、北支で、戦死してしまいました。
ほんとの、ひとりぼっちになってしまいました。

オキヌ婆さんとこの犬も、年とって、よぼよぼした小さな犬でした。
その犬は、戦死したむすこが、小学校のとき、知り合いの家で
もらった犬で、子どもたちが、かわいがって育てた犬だそうです。
オキヌ婆さんは、その年とった犬を、戦死した子どもたちが、
婆さんに残していった生きた形見だといっていました。
その犬を見ていると、死んだ子どもたちが、まだ、どこか、近くに
用たしにでかけていて、やがて帰るような気がする、ともいって
いました。その犬を、たいへん、かわいがっていました。
座敷の上で飼っていて、ご飯のときにちゃんとざぶとんを
しいてやって小さなチャブ台に、オキヌ婆さんと犬とは、
向かいあってすわって食べるのでした。

P.86
と、そこに、オキヌ婆さんが、あの年老いた犬をひっぱって立って
いました。年老いた犬は人間のように、紫色のチャンチャンコを
着せられていました。

オキヌ婆さんは、「親しくしていただいた、あなたたちに、この犬との、
お別れをしていただきたい、と思いまして・・」と言うのでした。
「では、とうとう、あの広場に、この犬を」
「はい、決心しました。きのう、おまわりさんと、役場の人がやって
きまして、いつまでも強情はって、犬をつれてこないと、戦死した、
ふたりの子どもの名誉にも、傷がつくというのです。こんなことを
いわれては、つれていかぬわけにはまいりません。これで、わたくしの
身近の親しいものたちは、みんな、遠く、遠く、あの世に、旅だって
しもうのです。」こういうと、オキヌ婆さんは、そこに、しゃがみこんで、
さめざめなくのでした。
なんといって、なぐさめたらよいか、なぐさめようもありません。

(略)

「おお、よかった。まだ元気でいたか。おまえだけでも、一日でも長く、
生きておくれ!」
ほんとに、心から、いうのでした。

(略)

広場には、定められた日に役場の人と警察の人とがきていて、
ここにつれられてくる犬をその日のうちに、しまつしてしもうのでした。

解説)
体験記、見聞記などで、殺処分対象外である軍犬、警察犬、
猟犬、日本犬以外の愛玩犬を終戦まで守り通した例を3つ、
知っています。
1つは犬の殺処分の日時を事前に知り得た警察関係者で、
自分の犬可愛さに、親類宅に預けて難を免れた例、
1つは2頭の、多分中型犬雑種を親類に預け、1頭の小型犬を
人目に触れぬようこっそり飼い続けた少年の例、
1つは、森田義一という作家が、昭和20年3月の犬の供出令の際、
子供同然の2頭の犬をどうしても差し出すことが出来ないと、
陰口や露骨な非難に耐えながら、人目を憚りつつ飼い続けた例。
多分、他にもあったのだと思いますが、多くの人は"非国民"
呼ばれることを恐れ、泣く泣く、犬を差し出したのです。
"犬の献納運動"について注意深く観察すると、その徹底ぶりには、
どうやら地域差があったようですね

オキヌ婆さんは、戦死した2人の息子を引き合いに出されて困惑し、
その名誉を守るために、唯一の生き甲斐であり、大切な家族である
老犬までも、お国のために差し出す決心をしてしまいますナク
役場の人と警察の人の、何と下劣なこと!

◎地域住民からのいやがらせ

P.89
この町で、殺されずに、生き残っている犬は、マヤだけになって
しまいました。こうなると、町の人たちは、わたくしたちと、マヤを
憎むようになりました。

P.90
また、飼い犬を、殺された人たちも、わたくしたちに、よい気持を
もっていないのでした。
「こちらは、じっとがまんして、犬を出してしまったのに、あんたはまだ、
理屈をこねまわして、犬を出さないそうですなぁ。」と、面と向って、
非難のことばを、わたくしになげかける人もありました。

毎日、毎日、いらいらした、不安な、暗い気持で暮らしていたので、
だれもが、怒りっぽくなっていたのでした。
なにか、ちょっとしたことでもあれば、それをしおに、心の中に、
わだかまっている不平を、思いっきり、ぶつけたい気持を、みんな
持っていたのです。

P.93
「みんなには、わかっていないのだ。いつまでも、犬を出さない家の
子どもは、非国民の子どもだって、学校で、みんながいうのだ。
マヤを殺さなくたって、非国民でないことを、みんなに知らせて
やるんだ。戦いに、うんと強くなって、いちばん先に、敵の陣地に、
突撃して、いちばん先に、戦死してやるんだ。今にみておれ、
もう少し大きくなって、兵隊になったら、マヤを殺さなくても、
非国民でなかったことが、みんなにわかるんだ。」
子どもたちは、真剣な顔でいうのでした。
「非国民」といわれることは、その当時の、ほんとにたえがたい
はずかしめでした。
3人の子どもたちは、小さい胸の中で、そのはずかしめを、じっと、
たえているのでした。
わたくしは、ギリギリと、心の奥が、しめつけられるような気が
するのでした。

解説)
町の人々が抑圧を受け、大きな不満、憤りを抱えている様が
伝わってくるシーンです。
一家を"非国民"と罵ることで、その不満を発散させようとしています。
マヤに、「1日でも長く生きておくれ!」と声をかけたオキヌ婆さんとは
対照的に、初期の段階で愛犬を差し出してしまった人の嫌味が、
すごく、リアルですよねクスン
変な言い方かもしれませんが、人というのは、追い詰められたときは、
みなが平等に、不幸であるべきなのです。
自分だけが不幸なのは、到底、納得ができないものなのです。
ちょっとでも得する者があると、それは絶対に許せないものなのです。
日本人は、"集団"の存在と価値を重んじる国民で、「和」を大事に
します、これは江戸時代の村社会の構造から形成された国民性ですざっくぅ
1つの目的に向かって何かをやろうとするとき、とても大きな力を発揮
するのですが(緒戦にみる日本軍の活躍や戦後復興期など)、異論や
自己主張や個性は排除してでも、集団の統一性を保とうとします。
そこには同調圧力があり、例え明文化されていなくても、日本人には
空気に支配されやすく、付和雷同的な部分があります。
信念を大事にするあまり、過激になったり、過剰反応したり・・。
東日本大震災や、ちょっと前の話題ですが、宮崎で口蹄疫が発生
したときなど、これに近いパニックが起こりましたネ。
この国民性は、良くも悪くも、としか言いようがありません。
物語に戻りますが、当時は、政府が国民生活のすべてを統制できる
国家総動員法という法律と、言論と思想を統制する治安維持法
いう法律があり、国民は協力せざるを得ない状況でしたが、
ここには、戦力という形ではないけれども、無意識に戦争に協力、
加担していく人々の姿が描かれていますたましい

◎特攻機の墜落

P.94
その日の空は、雲ひとつない日本晴れでした。
飛行機には、ただひとり、若い兵士が乗っていました。十七、八歳の
子ども子どもした顔つきの兵士でした。額には、日の丸のついた
手ぬぐいで、キリリと、はちまきをしていました。
若い兵士をのせた飛行機は、落ちると同時に火を吹いたのでしょう。
赤黒いほのおが飛行機をつつんで、めらめらと、燃え上がって
いるのでした。なにが爆発するのか、ときどき、ドカーン、ドカーンと、
大きな音をたて、そのたびに、赤黒いほのおは、ごうと大きく
立ちのぼるのでした。
ほのおにつつまれた若い兵士は、胸をはって、「気をつけ!」の
姿勢のままで、操縦席にすわっていました。
身動きひとつしません。
落ちたときのショックで、気絶していたのかもしれません。
無念そうに、ギュッと、歯を、かみしめていました。
ぐっと、かみしめた白い歯が、ほんとに、いたましく、心に
しみるのでした。
火勢がはげしくて、飛行機に近づけません。
今、救いだしたら、あるいは、助かるかもしれないのです。
けれど、だれも、近づくことができないのです。
ここに集まっている人びとは、子どもを、夫を、兄弟を、あるいは、
親しい友を、戦地に、送りこんでいる人びとなのです。
戦争ということで、深く結ばれている人たちでした。
助けるすべもなく、目の前の、ほのおにつつまれている若い兵士の
ことを思い、戦場の身内のものどものことを思い、集まっている
人たちは、大粒の涙を、ポロポロと流すのでした。
「いたましいことだ。」
「いたましいことだ。」
集まっている人たちは、若い兵士のために、その親たちのために、
悲しみあうのでした。
悲しみのさいちゅうに、
「天罰じゃ。少しぐらいの飛行機の故障で、臆病風を吹かせて、
引っ返してくるから、こういうめに会うのじゃ。」
思いもよらぬことばが、聞こえました。
なんの同情もない、憎しみのことばが、聞えてきました。
集まっていた人びとは、強い怒りを感じ、いっせいに、その声の
したほうに、怒りのまなこを向けました。
そこには、ひとりの将校と、ひとりの下士官が立っていました。
人びとを怒らしたことばは、このふたりから発せられたものでした。
将校と下士官は、ぐっと、胸をはって、人びとのまなこを、
にらみ返しました。人びとは、目をそらし、うつむいて、怒りの
まなざしを、足もとの土の上に、落とすのでした。わたくしも、
やっぱり同じことでした。
そのころは、軍人に口ごたえしたり、反抗するものは、「非国民」と、
ことばでののしられるくらいではすみませんでした。
ほんとに、ひどいめに、あわなければなりませんでした。

解説)
特攻機の墜落という痛ましい事件が起こります。
これが、椋鳩十の実体験に基づくものなのかちょっと調べて
みましたが、事実確認はとれていません・・。

それにしても、将校と下士官の態度は、ホント、腹が立ちますよね
あまりに頭にきたので、私が激戦地・沖縄に送っておきましたよっ。
   ↑
私の妄想とも言いますけど
そして、特攻機で引き返すこと=臆病風を吹かせて、というのは、
正しい認識ではありません。
特攻は1回きりの攻撃となるため、悪天候であったり、
エンジンや機器トラブルがあったり、敵艦に体当たりする前に
敵機に遭遇したり、敵艦が発見されなかった場合は、
引き返すことになっていたのです。
この時期は、もう、鈍足の偵察機や練習機まで特攻に使うほど、
数が足りてなかったのですよ、前述のような理由での帰還が
許されたのは、搭乗員の人命を尊重したからではなく、あくまで
飛行機が貴重だったため、です
あの、でたらめクソ小説"永遠の0"(←未読!)でも、不調だった
宮部機を大石(だっけ?)に譲ったことで、引き返したからこそ
大石は生き延びたんでしょうし
このシーンでは、みな一様に、少年の死に同情しています。
しかし、政府、軍部、マスコミの影響下で、国民の少なくない数が、
各戦闘で敗走する兵たちに対して、かなり、辛辣な意見
("戦陣訓"の「生きて虜囚の辱を受けず・・」的な)を持っていた
ことも、知っておかなければなりません。

◎事態の急転

P.101
「相談も、へったくれもない。きょうは、犬を出すようにという命令だ。
犬をつれにきたのだ。きのうも、特攻機に乗った少年兵が死んで
いったのを、あなたがたは見たであろう。みんな、命をお国に
ささげているのに、あなたの家では、犬一ぴきで、こんなに、
わたくしどもにやっかいをかけるのは、どういうつもりなんだ。」
たいへんなけんまくでした。

P.104
最期のごちそうも食べることができず、しみじみとした、お別れも
することができなかったのです。
次男と三男は、ほんとうに、あわれと思いました。ひとりぼっちで、
死なせたくないと思ったのです。そこで、次男と三男は、マヤを
ゆわえたナワを持って、広場まで送ってやることにしました。

解説)
特攻機の墜落の翌日、"わたくし"の留守中に、おまわりさん、
部落の世話役、役場の人が訪ねてきて、マヤを連れていくシーン。
奥さんは「主人が帰ってきてから必ず連れていくので・・」、
「せめて、マヤに最期のご馳走を食べさせてから・・」と懇願するの
ですが、その願いは聞き入れてもらえませんでした。

◎マヤの最期

P.106
飼いぬしである幼い子どもに、マヤのナワを持たしておいて、
幼い子どもの、目の前で、マヤののう天に、太い棒の一撃を
くれたのです。

P.107
ずっとまえから、わたくしたちは、あの、おまわりさんも、役場の人も、
部落の世話役の人も知っていました。
悪い人たちではありませんでした。どちらかというと、人のよい人たち
でした。けれど、こういう時代になると、人びとは、知らず知らずの
うちに、荒あらしい心の持ちぬしになってしもうのかもしれません。

P.110
マヤは、ススキやぶの前で、ばったり、倒れたのでしたが、息を
吹き返して、やぶの中にじっと夜になるまで、ひそんでいたものと
見えます。太い棒で、ひどく、打たれたので息もたえだえな状態で
ひそんでいたのでしょう。
夜になるのを待って、消えようとする命の火を、かきたて、かきたて、
幼い日からの思い出のある、わたくしの家に、ようやくの思いで
たどりついたのです。
そして、愛する次男のにおいのするげたをみつけ、愛するものの、
においをかぎつつ、息をひきとっていったのです。

解説)
文字通り、"マヤの一生"を通じて、戦争や社会が醸成する人間の
罪深さ、醜悪さ、愚かさを知ることができると思います。
マヤの最期は、本当に胸が痛みますし、戦後20年経って、ようやく、
このことを物語にした椋鳩十の心中を察しても、余りある・・
マヤや他の殺された犬たちは可哀相ではあるのだけども、当時の
時代背景を考慮せず、そのまま現代に当てはめて、当時の人々の
言動を非難するのは、少し、酷かなと思います。
(個人的には、徹底的に糾弾したいところではありますが!!)
犬たちに起こったことなんて、悲惨な戦争の、たった一面、
ほんの側面にすぎないのですから、ただ、偏見に囚われず、
淡々と、事実を突き合わせていく作業のみ、です。
そうした積み重ねの結果、戦争とは?平和とは?という問いの、
難し~い答えに近づいていけるような気がします、私はね。

しかし。
人間とは、いつの時代も、身勝手なものですよ。(現代も然り!)

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉があり、
なるほどー、と思っていたところ、ある人が「しかしながら、歴史は
繰り返す」と続けたんですよね。(ある人=失念!)
私は、その言葉に、ただただ、狼狽しただけでしたが

物言わぬ動物たちの辿った歴史から、人間社会を考察することで、
気づかされることは多いと思います。

おまけ("マヤの一生"の中のお気に入りのシーン)

座敷から追い出され、土間で飼われることになったマヤが、
人恋しくてたまらず、一家が寝入った頃合いを見計らって、
座敷に上がってきて、こっそり隣の部屋で寝ているシーンが
あります。
不審な音に気付いた"わたくし"が音の正体を確かめようと
起き上がっていくと、土間に置かれた犬小屋の中から
マヤが素知らぬ顔で出てきて、隣の部屋にも異変はなく。
"わたくし"は、気のせいだったかと思うのですが、翌日も
また、同じ現象が・・おばけ
結局、マヤが座敷に上がっていたことがバレ、"わたくし"に
「この、うそつき犬め!」と、しこたま怒られるのですが
(そして、のちに、このことを"わたくし"は激しく後悔するのですが)、
悪さ?がバレて、バツの悪そうなマヤの表情や、マヤの
飼い主へのいじらしい思慕の情がよく伝わって、犬がたまらなく
愛おしく感じる、素敵な場面だと思います

 

~~~~~~~~以上転載~~~~~~~~

 

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元気で~すプーちゃん  フォット送信→届いてませんね^。^

 

 

集団ストーカー被害?が酷くなってきています。 頑張れるか?疲労困憊ですww

 身体攻撃 キツイ・・・・・ツイッターで被害者に起きている嫌がらせに 頷くです。

 

 

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   pc 突然 ドウシタ?!(。艸゚;*三*;。艸゚)ドウシタ?! 公開も下書きもタッチできなかったりじゃ

 

 

    end