田岡一雄「神戸」に一歩を標す | なんでも書いちゃってます

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「これだけ姉兄親戚がおって
誰一人餓鬼一匹引き取れねえのか情けねー
俺が一雄を引き取ってやる」

叔父(母の弟)の「河内和四郎」は酔った勢いで
一人まくしたてた

誰もやっかいな者を引き取りたくないと思っていたので

「河内和四郎」の宣言にホットしていた

大酒飲みの

「河内和四郎」に皆は酒をついで回り
おだてて、褒め上げた

「田岡一雄」はこの

「河内和四郎」に引き取られ
神戸行きが決定した


「河内和四郎」は神戸市兵庫港で
鐘紡専属の荷役現場監督をしていた


思慮分別に欠けおおまかな単純な男だった

「小松島港」から



「神戸港」行きの船に乗った・・・


二度と帰ることの無い三庄村の我が家、
吉野川、寂しかったと同時にまだ見ぬ
大都市神戸の生活に対するほのかな
憧れもあった

船に乗るとさっそく

「河内和四郎」は飲みはじめた
酔ってだらしなく口を空けて眠りこける
その姿に寒気がした

船は翌早朝の5時に神戸港に着いた


夏の夜明けは早い甲板から見る神戸は
六甲山脈が広がり

宝石をちりばめたようなネオンの海が光り輝いていた


当時の神戸は三菱についで三井、住友も進出し兵庫港を中心に活況を呈していた


沖仲仕5千人近くを数え

初代「山口組・組長、山口春吉」も
西出町で沖仲仕50人ほどを擁して
「山口組」を結成していた


「山口組」の結成は「田岡」が神戸にくる4年前、
大正4年のことだった

叔父の家は貧困層の住むバラック長屋であった




ここから「田岡」の過酷な生活が始まろうとしていた

「今日からここの家の子になるんやで」

一軒の長屋の前で

「河内和四郎」は「田岡」を振り返って言った、

だが家の中へいると

「河内和四郎」と妻「サト」との間に
憎悪に満ちた激しいやりとりがはじまった

「私に何の相談もなしにいきなり
この子を今日からこの家に置く
といっても私はごめんだよ」

「誰も引き取り手がないんやから
仕方ないやろ」

「私は嫌だよ自分のお腹を痛めた
子でもないのになんで
私が面倒みなければいけないのよ
あんたが連れてきたんだから
あんたが面倒みてよ」

「サト」は土間で荷物を抱えたまま
オロオロ立ち尽くしている
「田岡」を冷たく突き放し
荒々しく家を出て行った

「サト」は近くの鐘紡工場の
女工として働いていた

年は32歳だった毒々しい化粧が
「田岡」の心を重くした

「サト」が勤めに出た後


「河内和四郎」は苦虫を噛み潰したように
冷酒をあおり、飯に味噌汁をかけて
流し込むと不機嫌に仕事に出て行った、

「田岡」は自分のために叔父夫婦の間が
気まずくなった事を知り唇を噛んだ、

<ここに来るのではなかった>

そんな後悔さえあった、

しかし かといって幼い「田岡」に
何ができるのか何もできはしない

どんなに邪険に扱われようと
ただじっと我慢して
ここにしがみついていなければ
生きていけないのである

「田岡」は又一人で取り残された

日の暮れるまでビー玉で遊ぶ長屋の
子供らを遠くからながめていた・・・

腹も減っていたが叔父夫婦の居ない間に
飯を食う訳にはいかなかった

夕方「サト」が帰ってきた

家の前でうずくまっている
「田岡」を冷ややかに一瞥すると
あてつけがましく夕食の支度をはじめた、

そのとげとげしさが
「田岡」の幼心を痛いほど突き刺した

 
「河内和四郎」が帰ってきた

三人で気まずい夕食の膳を囲んだ

「田岡」は借りてきた猫のように
叔父夫妻の顔色を伺い早々と
「ご馳走さまでした」と箸を置いた

他人の飯にはトゲがあった
台所で自分の食った茶碗を洗いながら
身の置き所のない疎外感があった

<わいがこの家にさえ いなければええんや
死ねるものなら死んでしまいたい
死ねばきっと母ちゃんに逢える>



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