ラジオで当選した、東京ソラマチのプラネタリウム天空。

いいなーって言ったら誘ってくれたから、行ってきた。

無口な男の子。
お酒がある程度入ると、かなりしゃべる。

券を引き替えて、時間があったから、水族館にいって。

水族館は、すんごいよかったよ。

でも、その子、ほとんどしゃべらなくて。

ご飯のとき、会話しようといろいろ話を振ったけど、元気に答えてくれるのは、
ラジオと自分の業界の話だけ。
しかも、私、詳しくないから盛り上がらないし。

で、プラネタリウム、私、寝ちゃったし。

うん。

興味がないっていうのは分かっつたし、無口っていうのもわかってたし、
まだ数回しか会ってないから、よく知らないっていうのもあったから、
今回のことは、物凄くハードだってことも分かってた。

でも、実際予想通りだとシンドイよ。

もうちょい気にして会話しようとしてくれると思ってたけど、
そうっはなかった。

うーん、やっぱり、もうすこし会話ができる人がいい。

もしくは、話したくなるような人に自分がならねばいけないな。

うん、そういう事だ。
一年前のブログを読んでみた。

というのも、書いたブログにコメントが付いたからだ。

一年以上放置したブログ。

当時、私は人間ではない、なにかしらの塊ではなかろうか、と、考えていたようだ。

久々に対面した、己の言葉に、
何かしらの想いを寄せてみた。
が、考えてみると、まだ塊から人間にはなっていないような気がする。

まもなく、祖母の三回忌がある。

最近、地震も増えてきて、遠い国で大惨事になっているようだ。

気が付いた。

私は、あの日からテレビを家で見てないことを。

実家に帰ると、点いてるからみるけれど、自宅では見てない。

現実から、逃げているのだろうか。

あれから、仙台の人との交流は繋がっている。
なんとなくブログを書いてみる。

これを読んで、気分が悪くなる人もいるかもしれない。
でも、なんとなく言葉を残しておく。

祖母の一周忌が、3/3に行われることになった。
葬儀はそう、忘れもしない3/11。
東日本大震災があった日。

この日、私は主をなくした祖母の家にいた。
すでに主はなく、家にテレビもラジオも、おおよそ外部から情報が入らない状況だった。
唯一の情報は、携帯のワンセグのみだった。
電波も悪い。

そんな中、ワンセグでNHKを見ていた。

葬儀場のテレビで、津波を見ていた。

茫然とする私と、これが現実だとは信じられないという自分がいた。

その後。

ハッキリ言って、これが現実のものとは考えられなかった。
自分のこととは考えられなかった。
どこか遠い国で起こっていて、自分とは無関係のことのように思った。

確かに外では、歩いて帰宅している人がいる。
お店では商品がなくなっているものがある。
それでも、自分のこととは思えなかった。

震災後、考え方が大きく変わったという人がいる。
でも、私はそうではなかった。
特に、大きく変わったことはなかった。

なんとなく、周りに合わせて、なんとなく変わった風を装っていたかもしれない。
でも実際は、何も変わっていない。

むしろ、そんな風に装うことが嫌で、何もなかったかのような風に過ごしている。

仙台の方に会う。
東北の方に会う。
その時の話を聞く。

ただ、自分のことのようには思えない。
もちろん、想像することはできる。
きっと、こんなんだろうな・・・と。

でもそれは、海外で起こった大地震やなんかと何が違うのか。

私は、人間的な何か大事なものが欠如しているのかと思わざるを得ない。
何かが欠如している。
もちろん、完璧な人間などいないけれど、それでも大事なものが欠如している、
そんな、人間ではない人間がここに存在しているのではないか、と
何か哲学的に自分のことを分析しはじめる。

これは、いつ自分が死んでもいいとかんがえているからなのだろうか。
今も、この文章を書いて、なんとなく満足して。
だから、今もし大地震が起き、この家がつぶれてしまい、
そして死んでしまっても、何ら悔いは残らない気がする。

私は一体どんな人間なんだ。

想像力の欠如した人間になりきれていない、人間のふりをした、
何かしらの塊なのだろうか。

そんなことを考えると、浮遊する。

思考も体も。

ということを考えながらお風呂に入っている。
お風呂に入っているから、浮遊感を感じるのか。
いや、冗談ではなく。

今、ひとつ思いついた。

私が何か大事なものが欠如している塊だ、ということを気づかせたのは、
東日本大震災があったからではないか。

ああ、そういうことか。

あの大震災は、私にとって、お前は人間ではない何某かの塊である。
それを認識させるものだったのかもしれない。

人間ではない何か、それをこれから探していくのだろうか。

私という人間。

なんとも不思議な物体である。


朝の月

ふわふわのススキの甫

ちっちゃいりんごみたいな赤い実

ボージョレー解禁のラジオ

家を出ると、優しい
夕陽のような朝日を浴びる。


秋の一日

何を思ったか、ブログを書いてみる。

と、書いてみると、まるで枕草子の書き出しのようだ。

男もすなる日記というものを、女の私もしてみんとす。

と、ゴシック体で書くとなんとも味気もない、日本語の良さのかけらもない。


ただ、なんとなく。

最近は、観劇が多い。
先週から。

いやはや、何本観たのやら。
書き出してみようとも思ったけれど、
すでに私の頭の中から、何を観たのかほとんど思い出せない。
Googleカレンダーにすべてを記録し、予定、という無駄な記憶を覚えておかなくていいようにしたためだ。

あぁ、私にとって、予定とは、記憶し留めておかなければいけないものではないらしい。

私の中での予定、それはすなわち仕事であり、覚えていなくてもいい、という判断を、精神ではなく、精神から切りはなれた脳内の細胞が判断を下しているようだ。

観劇=仕事=記憶にない

あぁ、なんと悲しいことであろう。

次から次へと観ていく芝居は、私の中で簡単に消化されていく。

覚えているのは、絵だけ。

印象に残っている絵だけ。

この二週間で、10本近く観ているせいだろう。
14日間で10本とは。

覚えているのは、ロベルト、クリスタル、沈黙、トマト、ドラの音、抱擁……

あとは、あとは……

私には、消化される芝居たちも、誰かの心には生き続けるのであろう。