「思想鉱脈」バークリの始めに当って
ユングに続いて、非物質論者のバークリに光を当てゝみたい。西洋近代哲学は、カントをダムとして支流に流れて行ったと云われるが、その源流のカントが畏敬したと云われるバークリを共に学んで行きたいと思います。先ずその前に興味ある言葉を紹介したい。
それは物理学の天才アインシュタインと、東洋の哲人タゴールの実在に就いての論争である。其れはアインシュタインが「存在するから知覚される」と云ったのに対して、タゴールは「知覚されるから存在する」と反論した。バークリは其の後「存在は知覚」であると一刀両断止揚したのである。もう一つは西のバークリに対して、東の王陽明との対照性である。其れは王陽明と弟子が山を散策中、岩間の花の木を指して「先生は天下に心外のモノは無いと申されますが、この花は深山の中で自然に咲き、自然に散って行くだけです。我々の心と何の関係がありますか?」と問うた時、王陽明曰く「君が未だこの花を見ない間は、この花は君の心と共に静寂に帰していた。それを今は君が此処へ来て此の花を見た時、花の色は一時に明るくなって来たのだ。これで此の花が君の心の外にあるものでなく一事が分るだろう」と答えている。
この事はアインシュタインが若い量子力学者に「あの月は見ていない時は存在しないと云うのか?」と言っている事に符号する。バークリが「全ての天体の群れや地上の備品は一言で云えば、世界の巨大な仕組みを構成する。全ての物体は心外には何等左右しない」と云っている。それでは皆さんとバークリの真理を学んで行きたいと思います。
※「月は見ている時にしか存在しないと云うのか?」
(43 43' 23)

