平成30年3月7日に行われ
た代表質問の答弁要旨を全5
回に分けて、お伝えします。



①幕藩体制下における旧野洲
地域について
②市役所職員年次有給休暇、
特別休暇、代休の取得しやす
い環境整備について
③(被事業譲渡先)現・民間
野洲病院の第49期決算内容

について
④野洲駅南口周辺整備につい

⑤独立行政法人野洲市民病院
について


今回投稿で①
2回目投稿で②
3回目投稿で③
4回目投稿で④
5回目投稿で⑤
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【通告1】
幕藩体制下における旧野洲地
域について

答弁要求者:教育長

【問】稲垣発・教育長


野洲市にとって重要な歴史で
ある天保義民土川平兵衛につ
いて、どのような形で教えて
いるか問う。

【答】教育長


三上小学校区では10月に天
保義民祭が行われる。子ども
や保護者、地域の方が多数参
加し、教職員も参加している。

三上小学校では、総合の時間
に土川平兵衛の正義を貫く生
き方を学ぶことになっている。

【問】稲垣発・教育長


幕藩体制下のまちは、江戸、
京都、大坂、いわゆる三都を
中心に、城下町、宿場町、門
前町、港町など多様な発展を
もたらしている。それに伴う
現在の野洲地域における発展
について問う。

【答】教育長


野洲は宿場町ではなく、文化
的発展について言及すること
は困難であるが、中山道や朝
鮮人街道などが通っていた。

【問】稲垣発・教育長


野洲市の三上に存在した三上
藩の成立から、幕末、明治維
新、明治4年の廃藩置県に至
る藩の過程、及び幕末の討幕
勢力と幕府側の対立における
同藩の立ち位置について問う。

【答】教育長


三上藩は遠藤家を藩主とし、
元禄11年(1698年)に
お城に相当する陣屋が現在の
野洲市三上に設置され、譜代
の三上藩が誕生した。

遠藤氏は譜代大名であり幕末
のころ5代藩主の遠藤胤統は
老中に次ぐ職、若年寄に就任
し活躍した。6代藩主の遠藤
胤城は奏者番という役職を務
めたが、その後新政府に恭順
し明治2年三上藩知事に任命
されている。

【問】稲垣発・教育長


三上藩の参勤交代について問
う。

【答】教育長


三上藩は参勤交代をしない江
戸に常駐する大名で幕府の重
要な職種を務めた。

【問】稲垣発・教育長


藩庁である三上陣屋の外観、
統治機構を問う。

【答】教育長


およそ1万石の領地は野洲、
栗太、甲賀、琵琶湖の向こ
う側の滋賀郡の計27カ村
に分散していた。

江戸時代後半には1万2,
000石にふえている。三
上藩陣屋は城に相当する屋
敷で、野洲郡三上村に設置
されていたが、外観は不明
だが、南北38メートル、
東西36メートルの330
坪程度であったとされてい
る。

【問】稲垣発・教育長


野洲川を守山方面に渡る際
には、どのような方法を用
いていたのか、架橋されて
いたのか問う。

【答】教育長

江戸時代の野洲川は橋がか
けられていなかったことが
確認されている。

歩いて川を渡っていたと考
えられる。上流階級の人々
が川を渡る場合には、仮の
橋がかけられ渡った記録が
残っている。

【問】稲垣発・環境経済部



観光誘致として時代祭り、
観光ツアーの企画、商品開
発等いろいろ想定できるが
歴史資源の活用を考えては
どうかと思うが問う。

【答】環境経済部長


まずは市民主導で考え、実
践していただきたい。提案
を含め、観光振興指針に沿
って一過性の観光から滞在
型の観光へ進めていきたい
と考えている。

「幕藩体制下における旧野
洲地域について」

答弁要旨終了。