雨が降っていた。
彼女...松原瑠璃は、ベランダ越しにその雨を眺めていた。
東京に出てきて5年。
田舎の方言も殆ど出なくなり、密度の高い人混みにも慣れた。
でも...雨には慣れないでいた。
雨の中傘を差して歩いていると、見えるのは自分の足先と、アスファルトだけ。
傘を打つ雨音で、喧騒もかき消されてしまう。
この世に独りだけ...自分だけ取り残されな様な不安に襲われるのだ。
「私はほんとに取り残されてしまったんだわ」
3ヶ月前、瑠璃の母が他界した。
父親は既に亡く、自宅で倒れていた所を救急搬送されたと、病院から連絡があって取るものも取りあえず郷里に戻った。
去年から猛威を振るっている病気のせいで、ガラス越しの対面になった。
白い防護服のドクターが、瑠璃の姿を確認すると、一礼をした。
指示を受けたナースが瑠璃に防護服を着せた。
「お母様、待ってらっしゃいましたよ」
母はもうだめなのだ。
瑠璃は悟った。
いつの間にこんなに老いていたのだろう、痩せた母の手を取る。
「お母さん...」声をかけた。
返事かのように大きく息を吸った母。
それが吐き出されることはなく、心電図モニターのアラームが、細く静かに無機質な音を響かせた。
あまりにも呆気ない別れだった。
たった一人で葬儀を済ませ、届けや手続きをし、家を処分し...。
全て済んだのが、つい昨日の事である。
昨夜遅くに帰宅して、眠れないまま朝を迎えた。そしてそのまま夕方になった。
仕事は、まだしばらく休んで良いと上司からLINEを貰った。
「お水...買ってこなくちゃ...」
3ヶ月近く家を空けていたのだ。冷蔵庫には1本の水すら入っていなかった。
ノロノロと立ち上がった。
まだ雨が地面を濡らしている。
強くは無い。が、止むことなく降り注ぐ。
瑠璃は、ビニール傘を手にエントランスを出た。
坂道を下る。
コンビニはその先にあった。
皆自分の足元を見て歩いている。雨の音と車の音...うるさいぐらいに...静かだ。
突然、瑠璃の頭の上でカラスが鳴いた。
仰ぎ見ると、駅前の方に飛んでいくところだった。
雨を斬る様に...真っ直ぐ翼を広げて...。
カラスの姿を目で追っていて、瑠璃はスクランブル交差点まで来てしまった事に気付いた。
まぁいいかと、駅向こうのコンビニかスーパーに行こうと、横断歩道を渡り出した時である。
目の前に降りてきたカラスと目が合った。
「御月っ...!」
突然、俺の中で誰かが目覚めた。
俺は...、その女がはるか昔、御月という名だった事を「知っている」。
明子だった時もえり子だった時も...「俺」は近くに居た。
「俺」の愛するひと...。
何度生まれ変わっても、「俺」はお前を求めていた。
...「俺」...が...?
...「俺」とは誰だ。
俺は人の死相をいち早く感知して、あの世に狩るモノだ。
今日も仲間たちといつもの様に狩っていたのだ。
女を見て、とつぜん湧き出た、「俺」の記憶が俺を混乱させる。
...この女は、死相が出ている...だから降りてきた。
御月...。
俺を見つめる御月の目は、驚きと恐怖と、少しの懐かしさを滲ませていた。
...死なせたくはない。
「俺」は、咄嗟にそう思った。
御月に群がろうとする仲間の中に割って入った。
いつもの狩りをするつもりの仲間からは「どうしたんだ!」と苛立ちが混じる罵声が飛ぶ。
詳しく説明なんか出来ないし、出来たとして理解してもらえるとは思えない。
ひたすら、ひたすら...仲間の手から御月を離そうと躍起になった。
御月は、そんな俺の思いを知る由もなく、仲間たちに魅入られようとしていた。
御月!御月!...「俺」だ。
「俺」はここにいる...。
気付いて欲しい...だけど気付い欲しくない。
張り裂けそうな心と戦いながら、仲間を蹴散らす。
「いつの世にか、2人で並んで花火を見るんだ。」
「俺」が御月と交わした約束。
こんなに近くにいるのに...また巡り会えたのに...俺にはそれが出来ない...。
仲間たちに魅入られ、死への階段を降りかけた御月に懸命に手を伸ばす。
お前は帰れ!
俺が...「俺」が代わりに行く!
万華鏡!あいつを守ってくれと頼んだ万華鏡よ!
「俺」の愛するひとを助けてくれ!
瑠璃は、目の前で起こっていることに恐怖していた。
ここは渋谷の真ん中だ。
それも人通りが特に多い、スクランブル交差点だ。
横断歩道を歩き出した時、舞い降りてきたカラスと目が合った。
ただのカラスだ。なのに知ってる。瑠璃がそう感じたその瞬間、目の前に黒く靄がかかり、音も光も人の気配も何もかも消えてしまった。
まるで異次元に迷い込んだかの様だった。
黒い霞が薄ぼんやりと明るくなった。
そこに蠢く何かを見た。
あれは...人...いや、カラスだ。
人の姿をしているのに、カラスだと分かった。
先程目が合ったカラスが、まだ瑠璃を凝視している。
「なんて切ない、なんて綺麗な目をしているんだろう...」
瑠璃は恐怖心を忘れて、そのカラスに手を伸ばした。
カラスである男が、その手に躊躇いがちに触れようと手を伸ばした時、男達...カラスの群れが2人の間に割って入った。
カラス達は、瑠璃を取り囲み、翻弄する。
美しい人の形をしたカラス。
黒曜石のような瞳、美しい濡羽色の翼、しなやかで力強い動き。
「魅了される」とはこういう事なのかと、少しづつ薄れていく意識の中で思った。
瑠璃は、自身の気力や体力がまるで吸い取られるかのように減っていくのを感じた。
それと同時に、母の死からふつふつと澱のように溜まっていた「この世に独りでいたくない」という気持ちが、心を濁らせて行くのを感じた。
「私、死にたいのかも。」
そう思い始めてきた。
瑠璃の手を取ろうとするカラスを、1羽が...最初に目が合ったカラスが、邪魔をするかの様に、瑠璃を庇うかの様に間に入り、背に隠す。
瑠璃は、このカラスがどうしてそういう事をするのか理解出来なかった。
ただ、泣きそうな程、必死に仲間のカラスを蹴散らす姿に、愛おしさを覚えた。
でも。「ごめんなさい、私...ダメかも...。」
「死なせたくないんだ!」
横断歩道の中程に、万華鏡が転がってきた。
それは突然、湧き出したように見えた。
少なくとも御月にはそう見えたはずだ。
俺は万華鏡が願いを聞き届けてくれたと確信した。
御月は、なにかに引き寄せられるようにそれを手に取り、覗いた。
...御月...。
あぁ...あの時のままの...愛しいひと。
「今生も...、偽の花火で許しておくれ...」
「俺」がそう呟いた。
死相が消えた...。
もう、大丈夫だ。
俺は、御月が生きていてくれればそれでいい。例え今生で結ばれなくても。
次の世で...次の世こそ...2人で...。
それまでどうか...幸せに...幸せな一生を送ってくれ...。
万華鏡に夢中なその後ろ姿に別れを告げ、俺は、先に輪廻の輪に入っていった。
瑠璃が死を思った時、視界の隅に、鮮やかな色の筒のようなものが写った。
「万華鏡...?」
どうしてこんなものが突然に...?
不審に思いながらも、拾い上げる瑠璃。
「覗いてみろ」と言われた気がして、片目を閉じて筒を覗き込む。
「花火みたい...」
美しかった。
何故かあのカラスに見せたくなった。
「ねぇ、見て!」
万華鏡から目を離し、振り返ると、そこにいたはずのカラスは消えていた。
それどころか、渋谷の街と、喧噪が...まるでチャンネルが切り替わるかのように戻ってきた。
しばらく呆然となった。
信号が変わる。
慌てて、残りを渡り切る。
カラス...あれは一体なんだったのだろう...。
夢だったのかもしれない...。
母の死に、落ち込んだ気持ちが見せた夢なのかもしれない。
「ご飯...なんか買わなきゃ」
自分でも分かる位に気力が上を向いていた。
なにか分からないが、この生を、一生懸命全うしないといけない...幸せにならなくてはいけない...誰かが助けてくれた命なのだから...と...そう感じていた。
雨が上がった渋谷の街を、しっかりとした足取りで、瑠璃は歩いて行った。
あの万華鏡を、愛おし気に胸に抱いて...。
お粗末さまでした。
次がラストのシリーズです。