鍋子城(赤穂市東有年字谷口)
別名:谷口城・大鷹山城
『播磨鑑』によると「この城には岡豊前守居住す。其後小河丹後守居住し、又その後赤松の家臣富田右京、六町川上、八幡山に城を築いて居住す。浦上宗景が為に亡さる」とある。しかし『岡城記』によると、岡豊前守は赤松の家臣で、矢野荘の地頭として下土井の大田林山に城を築き城主となったとあり、さらに、岡氏13代の城主の事蹟が記されているが、鍋子城の城主になった記録は見当たらない。那波家文書の中に、天正八年(1580)宇喜多氏の所領となった赤穂郡の領主の名が記されているし資料があるが、それによると千種川西岸の赤穂地方は全て岡豊前守の所領となっている。その支配の為に鍋子城に役所を置いたのかも知れない。岡豊前守に次いで小河丹後守が城主となったとある。小河丹後守秀春は矢野荘小河の住人で、鴇ヶ堂城の太田治内を攻撃したが敗れて元亀二年(1571)うつぎが原で討死した事になっている。この秀春と鍋子城の丹後守が同一か否かに問題があろう。その後富田右京は三年間この城にいた。その頃はこの城は大鷹山城と呼ばれていた。右京は三年居住後もその城の名、大鷹城と共に、五、六町川上の八幡山城に移り、八幡山城を大鷹山城と呼んだ。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)