中臣城(たつの市揖保町中臣)
『播磨鑑』には「城主は赤松刑部介政資 七條家来葉 嘉吉の乱に落城せり。然れど政資落人となり山林幽谷に身を隠し年月を送る所に応仁の頃政則当国に入りたまうにより武功を顕はじ」とある。『日本城郭全集』には「応仁の乱に赤松政則を助けて旧播磨の回復に活躍した赤松掃部助則勝が築城した」とある。法雲寺蔵の「赤松大系図」によると政資と則勝は共に満弘の子で兄弟で、それによると「則勝 村田掃部助、揖西郡揖保庄中臣山城 采地者揖保小宅浦壁三ヶ庄也、明応五丙辰年六月十八日卒歳四十号正円寺」とあり、弟政資は「又次郎刑部少輔修理判官為揖東西岡郡の守護室津加茂城、河内庄伝之(台か)城同鍛冶山城主也、文亀元年四月四日於揖西郡藤原卒四十歳南明院道即藤原有墓塚」とある。応仁の乱(1467~1469)後中臣城に居城したのは則勝のようで、この点日本城郭大系の記載の方が正しいようである。永正年間(1504~1521)には子範長が居城したと云われているが則勝の湖に範長は現れていない。天文年間(1532~1554)英賀城の三木一族に攻められ落城したと云われている。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)
候補地が二ヶ所あり、ます中臣印達神社