細川城は細川荘を支配するために公家が造った城である。細川荘は、藤原定家を先祖とする歌道の名門下冷泉家代々の荘園で、歴代の当主は細川と京を往反する生活をしていた(『公卿補任』)。応仁の乱勃発に伴う京都の荒廃により、冷泉政為(下冷泉家の当主)が細川に下向、細川荘を治める拠点として細川城を築いたようである。
細川城は、政為以後の当主(為孝-為豊-為純-為勝)の居館で、在荘の期間を通じて徐々にこの居館の城郭化を進めている。最後の城主冷泉為純は、子為勝と共に三木合戦開始直後の天正六年(1578)四月に別所方の岡村大炊助(中村城主)を攻撃を受けて討死している。冷泉家が秀吉方に味方したため、別所方の血祭りにされたようである。落城した細川城は廃城となり、名門冷泉家は没落したのである。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)