正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は吉野郡小房村の「尾房之城」として、「建武頃は粟井が出城」で当時の城主粟井近江守景房の一家に粟井三郎・同与市、幕下に藤生新兵衛あり、山の高さ二町余りで岩険阻、永禄(1558~1570)の頃は福田孫八郎が城を抱え、鞍懸城の城主五島基政と不仲で一年ばかり争い、播磨国平福城の城主別所日向守の仲裁で和睦した、また別に久賀村の「尾房」として、城主は有本宗兵衛、勝田北郡戸板村の平左衛門は五代の孫とする。「美作鬢鏡」は「小房村ノ城」として城主不詳、久賀村の「尾房城」として、城主を有本惣兵衛とする。「美作鏡」は小房村の「小房城」として、城主を有本惣兵衛・皆木与市、城山は勝南郡久賀村に跨るとする。「新免家侍帳」とされる文書には、「新免修理之介、小房城 備中守弟なり」とある。「東作誌」は「小房城」として、異本に宇野右近が居城、あるいは元弘年間から文安年間まで有本左衛門尉佐吉以下三代の居城ともいう、山へは約八町余りで西が大手、本丸(東西十間、横十七間)、本丸の北に「的場の段」という二の丸(竪二十間、横八間)、東南に張り出した「太鼓櫓の段」という三の丸(竪三十一間、横七間)、的場の段の下に張り出し、古くは馬の売買の場所という「馬工郎の段」(竪十七間、横六間)、西南の砦の間に堀切ありとする。天保国絵図に「古城跡」とある。なお『勝田郡誌』は「小房城(鳥ヶ城)」と別名を併記している。
(※美作国の山城より)
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