正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は苫西郡西屋村の「西屋」として、城主を河端丹後とする。「作陽誌」は高さ二百三十間、天正の初め宇喜多直家の将・斎藤玄蕃助近実が居城、吉川・小早川氏が城を囲んだが積雪のため開陣、翌春再び城を囲み、玄蕃は逃れ落城したと記す。「美作鏡」は城主について河端丹後に続き、後、苔口宗十郎・斎藤玄蕃とする。天保国絵図に「古城跡」とある。『日本城郭全集』は「西屋城」とし、本丸、二の丸、三の丸の区画、堀切、堀、井戸などの跡が明確に残るとする。
(※美作国の山城より)
南東堀切
南東堀切からの北東竪堀
南東堀切からの南西竪堀