「西国太平記」は「斎田城」として、少なくとも天文期(1532~55)以降、庄氏の一族植木下総守秀長の居城で、秀長は永禄十一年(1568)に備前国の宇喜多氏に服属し三村氏らと抗争、子の下総守秀資は「此口部城」(丸山城か、真庭市下砦部)に拠り、当城には元亀二年(1571)には尼子氏の検使・大加駿河守が入城したなどとするが、いずれも年次および事実関係については検討が必要である。享保二年(1717)の「備中地誌」は、中津井村の「佐井田山古城 三村元祐」と記す。『日本城郭全集』は「才田城」とする。(後略)
(※美作国の山城より)
現地説明看板
北東麓曲輪群東三郭
北東麓曲輪群東二郭
北東麓曲輪群主郭
北東麓帯曲輪最下段
北東麓帯曲輪下段
北東麓帯曲輪中段
北東麓帯曲輪上段
北東麓帯曲輪最上段
北東十一郭の石垣
北東十一郭
東十郭