船上山の西端にあり、当城には行松正盛入道が子、行松何某立て籠る。嘗て吉川元春よ下知に依って加藤佐渡守・秋里新左衛門等、馳せ向かいて城を乗っ取りけるが、行松は此の時降人となる。
赤坂掃部は元弘の頃、当城に在り、後醍醐天皇船上山に降幸の時馳参り、皇都へ奉し、大いに忠勤を尽くけり、当国の諺に物の延引する事を「掃部殿の大山参りにて埒が明かぬ」という。是は此の掃部当郷に在城して、日頃大山権現を崇敬せり、然るに日々登山を志ながらも兎角障りありて一生涯参詣せずして卒れる故、郷俗、ものの延引する事をかく言噺すに至れりとぞ。
当郷に糟屋弥二郎重行入道元寛、同弥太郎忠長という士居住し、明徳二年近江国番場に於いて戦死すと言い伝う。居住の里分明らず。
参考・太平記に曰く、後醍醐天皇船上山に降幸の時、佐々木隠岐守清高二千余人にて大手東より押寄する、其弟三河守清房、能登守清秋、一千余人にて搦め手西坂より攻め上がる。名和長年が一族一命を捨て防戦する故、寄せ手敗北して、清高三里ばかり引き退きて陣を張る。長年下知して弟六郎行氏、従兄弟小太郎信貞を大将として七百余人清高が陣を夜討ちして攻め破り、此の序に当国の守護糟屋弥二郎重行入道元寛が中山の城に立て籠りたるを追い落とし、次に小鴨井に忠長が館を攻落として、其の後国中にはびこりしとなりと云々。
(※伯耆民談記より)
伯耆民談記に記する所の細木原の城は以西村にあり。勝田川を遡りて勝田山下に至り西方より加わる支流の鱒返しと称する地よりやや下流にミサキ原細谷等の字ありてやや平坦なる高台あり、これがいわゆる細木原の城なりと池山祀衛氏は語れり。
(※以来西村郷土誌より)
史料を調べてみても、細木原城の位置ははっきりとはしないが、船上山から勝田ヶ山へ向かう途中から分岐する尾根に在る「天皇屋敷」が、もしかしたら細木原城ではないのだろうか…!?
船上山から勝田ヶ山への登山道を進んで行くと、天皇屋敷への道標があるが、この道標の先には一切道は無く、激しい笹薮に覆われた尾根となる