高瀬城 旧朝来郡和田山町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

高瀬城(朝来市和田山町宮田・高瀬)

高瀬城の主郭は法道寺集落と深谷川筋の谷との間に聳える290mの山頂とみられる。ここから北側山麓に向かって四ないし五条の階段式尾根郭筋が降りている。一方、深谷川の東に聳えて長々と南北に続く土田の山の尾根上にも曲輪跡が存在しているのである。土田富栖城と呼ばれている。土田富栖城は北端部の宮田トンネル上に南北朝期の古い城跡があって、これが土田の城の全容と考えていたのであるが、ついでその南の一段高い台地上にも城跡があるのを見つけて驚いたものだ。この城跡は戦国期のものと知って南北朝期のものだけとひとまず全容を抑えたつもりでいた。ところが、その南に続く尾根上にも南北朝期曲輪跡があると聞かされ、登ってみると聞かされた通りの城跡が延々と続いているではないか。どうしてこのような大規模な城が南北朝期に築かれたのだろうか。文献史料を突き合わせて考えてみてもどうしても解答が思い浮かばない。そこへ高瀬城の発見があった。
土田富栖城は土田氏が築いたものと思う。土田氏は『但馬太田文』に、土田郷四分方五六町二三四歩地頭職土田又太郎高茂と記されている人の子孫であろう。この土田氏との間に高瀬城の城主は所領争いを演じていたのではなかろうか。ではその高瀬城主は何氏であろうか。それは阿曽沼氏と推定する。町内岡の早崎家には次に示す下文が保存されている。
(※下添付参照)
この文書には発給者の箇所が欠落していて分からないのであるが、足利尊氏とみて以下の経過を推理するとよく辻褄が合ってくるので、この線に従って叙述を進めよう。
この下文が発給された時の戦いは観応二年(1351)正月、京都における合戦とみる。この戦いで尊氏は直義方に敗北し、丹波から播磨へ逃げるのであるが、その時の陣中でこの下文はしたためられたのであろう。二月には和議が整い、直義は尊氏政権に復帰する。
ここで阿曽沼頼綱の出自に関し、簡単に触れておこう。頼綱は下野阿曽沼氏に属する人とみる。この氏族は下野国阿蘇郡浅沼より興った氏で、秀郷流藤原姓足利氏の流れという。佐野系図・結城系図・阿曽沼系図等に分かれた同氏一族系図上の諱は、全て「頼」を共通にしているところから、頼綱もまたこの下野阿曽沼氏に属する人とみたのである。観応二年より十三年前の暦応二年(1333)三月、進美寺山城(豊岡市日高町)攻略に功績があって、懸賞の進美寺領預所職を給された阿曽沼孫四郎もまた阿曽沼氏の一族だったのであろう。
頼綱が与えられた参照名田は石禾庄にあった。石禾下庄の事で、ここには石禾村・那岐谷村・高瀬村などがあった。こうして阿曽沼氏は石禾庄に入ったのであるが、これより以前、既に石禾庄には関わりがあり、希望によって晴れて名田領主たることを認められたのではないか。この事が隣郷土田上郷土田氏の所領に何らか関わるところがあって、土田氏と阿曽沼氏との間に緊張関係が生じたのではないかと想像する。土田氏は早くかは土田郷を所領としてきた有力氏である。新しく隣郷に名田を与えられた阿曽沼氏が土田氏に圧迫された事は考えられるところであろう。この緊張関係から阿曽沼氏は岡の背後の山に石禾古城を築いて緊急避難の策を構える。石禾郷の奥の高い山の上に、石禾古城とそこから北隣のもう一つの峰の頂上との二ヶ所にも渡って南北朝期の山城の跡を見つけて驚いたものであるが、このように考えれば、その存在理由に納得ができるであろう。この争いに周りの国衆が阿曽沼氏に加担の姿勢を見せたのかも知れない。これが原因で延文元年(1356)、土田郷の土田太郎左衛門は南朝方に寝返る気になったのではないか。この寝返りに周りの北朝方は、阿曽沼氏を応援し共同して高瀬城を築いたと推定する。高瀬城は土田富栖城の尾根線に相対する尾根筋に最も堅固に曲輪跡が配置されている事は、この事を有力に物語っていよう。結果は土田氏側の敗北であったき違いない。土田氏の消息は、この後、急速に衰えを見せるからである。
(※和田山町史より)





果てしなく広大に展開する遺構を全て見て周りつつ、写真を撮影しながら、図も描いて行くのは、際限無き手間を必要とした…

高瀬城遠望
軌跡ログ
実地踏査を元に作成した概略図
(主曲輪群・南曲輪群・北西曲輪群・北尾根曲輪群を三つに分けて作成し、それを一つに合わせて完成させた)