室尾城 旧朝来郡和田山町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

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室尾城(朝来市和田山町室尾)

東河郷の西端部は石清水八幡宮領の室尾別宮であった。但馬国太田文には、二二町一反、八幡領、下司室尾弥四郎入道願蓮御家人と注記され、内訳流出四反、仏神田一五丁、定田五町と記されている。東河郷に二八町二一〇分、枚田郷に三一町六反二六〇分ある「八幡神人免」は、室尾別宮に所属していたものと思われる。
八幡別宮は、八幡宮を鎮守とし別当寺院がこれに奉報するを通例としていた。室尾別宮の別当寺は室尾山法宝寺であった。鎌倉時代には太田文にあるように神人免分も合わせて大きな所領を支配していたのであるが、室町・戦国期に至っても法宝寺は国人領主の一人として勢力をもち続けたようである。このことは法宝寺境内が伽藍とともに一つの城塞として機能していた事が考えられるからである。図72に見られるように、江戸時代にも八幡宮・寺・塔・仁王門等の伽藍が山上に建ち並んでいた。中世にはこれらの下の部分にも曲輪跡があって防備を固めていた様が読み取れる。
以上の八幡宮領を荘官として管理するのは武士であった。但馬国太田文に記載の下司室尾弥四郎は地名を姓としているところから、室尾の人ではなかったか。国御家人である。南北朝期に至って西氏が登場していたが、養父郡貫主親安の曾孫に糸井和泉貫主清秀がいて、その孫らに東河新大夫、西新大夫季村、東新大夫為清がいる。東河新大夫が太田文に表れている東河氏であろう。西季村並びにその子孫が室尾別宮の地頭か、それに類する職を拝領していたのではなかったか。岡田村には「西」の字名地がある。そこに西一族で祀っている五輪塔・宝篋印塔が六基ほどある。この様子から見て、ここに西氏の館があって何世代かに渡って居住していたため、その跡地が字名として残ったのではないか、ということが考えられよう。
彼らが有事の際に立て籠もる城郭が法宝寺周辺の山中に築かれている。八幡宮跡地真上標高差100m余上がった所の突き出た尾根上には幅6m、長さ42m余の平地があって、その奥の背後の山に接する所に堀切がある。この事から城郭跡である事を証明するものではあるが、自然地形を思わせるばかりで削平の跡は見られない。法宝寺跡から西に延びる尾根上にも曲輪跡が連なっている。堀切、土橋等も見られるのであるが、削平・切岸等ははっきりしておらず、前記の高所の曲輪跡とともに南北朝期のものと推定できる。早くに城郭としての機能は終えたのだろう。ここに方形の区画に栗石(川原石)を積み上げた中世墓が三基余見られる。近世にはその余の削平地には近世の室尾住民の墓地が営まれている。近代に至って岡田集落に下ろされた八幡宮社殿の敷地も、曲輪跡らしい。八幡宮社殿の裏に大きく深い堀切が存在する。
これら城郭は室尾別宮領を守る武士らの居城であっただろう。南北朝期から室町期にかけての時代、西氏がこの城の主であったことが考えられる。
(※和田山町史より)
図72
現地案内図
東八郭
東八郭から東七郭への土橋
東七郭
東六郭
東五郭
東四郭
東三郭
東二郭の北東土塁
東二郭
東二郭南帯曲輪上段
東二郭南帯曲輪下段
主郭
北二郭
西二郭
上がった所に西三郭の古墳
西三郭
西四郭
西五郭
西六郭
西七郭
西八郭
西九郭
西十郭

室尾城遠望
軌跡ログ
実地踏査を元に作成した概略図