宮吉城 旧気高郡気高町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

標高30m、比高25mの宮吉城(鳥取市気高町宝木)

母木絵図を見ると、この宮吉城は、内堀・外堀の跡が明確に描かれており、河内川が城山の近くを北流して、外堀の用をなしている。内堀には観音堂、大所、蔵の跡の地名が入り、外堀の内には若宮、地蔵堂などの跡が残っている。これらは、当時城内に多数の家屋、町屋があった遺跡があってら城郭の様相が伺える。これは、山名氏の布施の築城と同形式であって、非常時には、町民、農民たちも武器を手に取って戦力になる仕組みであった。大所とは、商人街を示す言葉であり、栂村に科人多くら栂を分かちて母木と改めたとの説は、純朴な町民農民たちの存在していたものと考えられる。
しかして、当城はいつの頃の築城であったかはつまびらかでない。初代山名時氏が因幡守護となったのは貞和年間(1345~1347)で、居城は巨濃郡岩常城であった。その後、高草郡布施城に移った。五代豊勝は文正年間(1466)で、宮吉城の落城は十四代豊国の天正八年(1580)であった。この間約230年野歳月が流れ、いずれにしても戦国時代の数十年間の隆盛があったと考えられる。

毛利勢の吉川元春、吉川元長、小早川隆景の二万七千の軍勢は、伯耆・因幡を目指して安芸を出発した。
それは尼子勝久を奉じて主家の再興を図る山中鹿之介の勢力が、因幡国で侮りがたいものとなり、なおさらに伯耆に攻め入るとの風説があったので、これを討ち伏せて因伯両国を安堵させるためであった。
伯耆国では尾高の城主 杉原播磨守盛重、羽衣石城主 南條宗勝、小鴨城主 小鴨元勝らが毛利軍に従った。
山中鹿之介は、亀井新十郎を大将とし私部城を守らせ、鹿之介は勝久を奉じて若桜の鬼ヶ城に拠った。しかし、私部城には糧食乏しく森脇横造らの将が尼子軍の勝利を見透かし、終わりには降人の出ずるに及び、毛利の手に落ちるに至った。哀れ尼子方は僅かに鬼ヶ城と宮吉城の二城のみとなった。鹿之介は、この状況を見てついに意を決し、勝久を奉じて夜に乗じ城を逃れ、但馬を経て京洛の地に上った。
宮吉城には、田公新右衛門、同嫡子新助高家が籠もっていたが、香川・小坂・杉原らの毛利勢に押し寄せられ、慌てふためいて脱走し、残る城兵五、六十騎がよく防戦したが、衆寡敵せず悉く戦死し、ここに因幡国は全く毛利の勢力圏に入った。
(※気高町誌より)

北麓の母木神社

神社の説明文に宮吉城についての記載もある

南の冨吉城から縦走すると、縄張図には記載されていない堀切が


堀切を登った場所に、縄張図に記載されていない小規模な曲輪

さらに登ると南二郭

主郭は激しい薮

主郭の南には、大きな土塁

縄張図には記載されていない東二郭
腰曲輪程度の規模

帯曲輪状の東三郭
こちらはかなり広い

北西麓付近に張り出した北西三郭

主郭の西側に帯曲輪状の西二郭

その一段下に、同じく帯曲輪状の西三郭


宮吉城遠望

軌跡ログ



旧気高郡気高町の城