標高214m・比高170mの高城城(倉吉市福積・沢谷)は、「唯落の城」、「立縫動土城」などの別名を持つ巨大城郭
高城城は標高214mの高城山に位置しており、『伯耆民談記』によれば国府伯耆守親俊の居城であったという。大永四年(1524)の尼子経久の伯耆侵攻の際、戦わずして落城したため、地元の人々から「唯落の城」(ただおちのしろ)と呼ばれ嘲笑されたと伝わる。ただ、現在は大永4年の尼子氏の侵攻(「大永の五月崩れ」と呼ばれる)の存在自体が否定されており、国府親俊の伝承が史実を反映したものなのか疑わしいものとなってきている。
当城は高城山一帯に広がる大規模な城郭で城主は現在の倉吉市高城地区、北谷地区に勢力を張っていたと考えられている。山頂付近の主郭は腰曲輪を伴い、その北、西南方向の屋根に大小の曲輪が配されている。小さい曲輪が主体であり、比較的大きな曲輪は削平が不十分であることが判明している。北東方向にも堀切や曲輪群が見られ、600m北には高城城の詰めの丸とされる下福田城が存在している。『新編倉吉市史』は高城城の築城を縄張りから見て応仁の乱以降であるとしている。
(※Wikipediaより)
なお、下福田城が「詰めの丸」と書かれているが、下福田城は山麓の居館であり、高城城が下福田城の詰めの丸であろう
さらに、当城と下福田城の間には出城とも言うべき大平山城が存在する…
中心部には遊歩道が整備されているので、それを利用し、楽々と
主郭をぐるっと取り囲む第二郭
細長く伸びる主郭
第二郭の北西下の北西三郭
北西四郭
北西五郭
階段状に続くこの尾根の曲輪は、十二郭まで連なっていた
戻って、第二郭から北へ張り出した尾根の北三郭
北四郭
その先には、縄張図に記載されていない堀切
北五郭
さらに曲輪がつらなり、北十一郭まで確認された
山頂へ戻り、主郭の東の二重堀切(内)
二重堀切の間の東二郭
二重堀切(外)
二重堀切の外側の東三郭
戻って第二郭から南へ下りた南三郭
南東四郭
三又の尾根のそれぞれに曲輪群が連なっており、南東尾根には南東十九郭まで、南西尾根には南西八郭まで、真ん中の南尾根には南十二郭までの曲輪が確認出来たが、所々が想像を絶する程の激しい薮であり、片手に鎌鉈、片手に鋸で切り開きつつ進んだ
北西麓の高城山白峰寺
「高城史」に記載された想像図
高城城遠望
3日間に渡って踏査した軌跡ログ
(初日:黄、2日目:赤、3日目:青)
南東曲輪群 東南東曲輪群 南東出城曲輪群
西曲輪群 北西曲輪群 東曲輪群
倉吉市の城