山名氏豊館 倉吉市 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

山名氏豊館(倉吉市東町)ニコニコ

『伯耆民談記』の大嶽院の項に「(当時)当寺は天正の頃、山名小三郎氏豊の館地なり(中略)境地四十間、廻りは大藪にして、切岸の土居なり、誠に要害堅固にして小城とも謂つべし(後略)」とある。また、倉吉城の項に「(前略)其子小三郎氏豊も所々流浪し、芸州の毛利家に頼り、永禄の末、当国に帰入し、本城に還住しける、余勢もなく、倉吉の辺りに僅かなる館舎を経営し、羽衣石の南條元続の旗下なりて(後略)」とある、

館の跡は、面影を残すことなく、現在は大岳院となっている…


境内の里見家墓所ビックリマーク

説明文ひらめき電球

房州(千葉県)館山十代城主里見安房守忠義公は、慶長十九年倉吉に転封されて当院門前に居住された。元和八年29歳にして門前町堀の地において逝去され、近臣八人が殉死を遂げた。遺言により、当院において葬送し殉死八臣の遺骨を埋め、御位牌とともにお祀りしている。
この時当院で授けた忠義公の法名を「雲晴院殿心叟賢涼大居士」といい、殉死した八人の法名にも全て「賢」の字を付けたところから、彼らは「八賢士」と呼ばれていた。後にこれが滝沢馬琴作『南総里見八犬伝』のモデルになったのではないかといわれている。
尚、この墓所には忠義公の伯父正木大膳と、里見家家老堀江能登守も共に埋葬されている。
(※現地説明文より)

門前には居住した武家屋敷があるが、現在も住宅として使用されている…



倉吉市の城