湯関村古城 旧東伯郡関金町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

標高185m・比高80mの湯関村古城(倉吉市関金町関金宿)は、調査報告書には「湯の関村の城」の名で記載されているひらめき電球

湯関村の古城の跡は竹や草木が繁っている。前通り(北面)に作州越えの道路があり、河村郡(ここでは三朝町地域)に越える山道がある。前通り(北面)は険しい崖である。山の高さ四十間(72.4m)ぐらいで、イ・ロ・ハ・ニと図示し、その平ルの縦横を表している。(現在の標高は73.1m)
字城山平にあるこの山は、いつの時代からか城山と呼び、三つ葉ツツジの群生する公園(亀井公園)となっている。
湯関村の城は「山名小太郎居住す」とみえても城の名称を記述していないので、何城であったか明らかでない。
(※関金町誌より)

山名小太郎(生没年不詳)は、室町時代の武将。実名は不詳。山名教之の五男で豊之、豊氏、之弘、元之の弟。
文明十一年(1479)、兄の元之と甥の政之が伯耆守護職を巡って対立し、内紛が生じると元之党に属して守護側と戦った。しかし文明十年(1481)8月に敗れて美作に逃亡、赤松氏の保護を受けた。延徳元年(1489)、赤松氏の支援を受けた小太郎は甥で元之の子新九郎を擁立し、再度伯耆へ侵入したが、政之の弟の尚之と戦って敗れ、同国由良庄より逃亡した。その後の消息は不明(異説あり、後述)。

一説によれば小太郎は延徳元年正月、由良庄からの逃亡途中に現在の関金町付近で討死したといわれる(参考・『塩冶高貞と南條氏追録』)。赤松氏の支援を受けた小太郎が逃亡先に美作を選び、逃亡路として関金の奥にある犬挟峠を通ろうとしたことは想像に難くなく、十分に有り得る説であるが、根拠となる参考文献が示されていない。そのため、本項では参考までに留めることにする。
(※Wikipediaより)

因伯古城跡図志の絵図ニコニコ

公園の遊歩道脇に曲輪が残る…
南四郭ひらめき電球

南三郭ひらめき電球

南二郭ひらめき電球

怪しい櫓風の展望台のある主郭ニコニコ

東への尾根は堀切で断ち切られている合格

北二郭ひらめき電球

北西竪堀合格

北二郭の下には空堀がビックリマーク

北六郭ひらめき電球

北六郭には巨大な井戸が!!


さらに出城と思われる湯関艮出城も存在する…

湯関村古城遠望カメラ

軌跡ログあし



旧東伯郡関金町の城