二上山城 岩美郡岩美町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

標高346m・比高340mの二上山城(岩美町岩常)は、岩常城とも、岩常の城とも呼ばれる…

南北朝時代に因幡守護となった 山名時氏によって、文和年間に築城されたと伝えられる。二上山城が因幡守護所とされた理由については、次の4点が考えられる。

1.荒金・法正寺・銀山・岩常から産出する金・銀・銅資源の掌握と管轄。
2.山陰道のおさえ。
3.山麓の小田川を通じての水運の利用
4.天険を利用しての軍事拠点

因幡民談記 によれば、五代守護の山名勝豊の文正元年(1466)に国の中央、布勢の天神山に守護所が移されたと伝えられる。ただし、新たな因幡守護所である布勢天神山城が山名勝豊によって築かれたとする説は、現在ではほぼ否定されている。15世紀後半から16世紀前半にかけて、守護所の機能が二上山城から布施天神山城へと移行したのは確実であるが、その年代については今後の研究を待ちたい。

守護所が布勢天神山城へと移った後、二上山城と岩常の集落は荒廃した。特に因幡山名氏が滅びてからの治安の悪化を憂いた村民は但馬山名氏(山名の総領家)に窮状を訴え、但馬山名氏一族の三上兵庫頭豊範を城主として迎えた。三上兵庫頭は二上山城の不便さをいとい、新たに道竹城を築いて移った。二上山城には番兵を置いたという。さらに降った天正年間になると、因幡経営の拠点は鳥取城に置かれることとなった。
天正九年(1581)羽柴秀吉による鳥取城攻略によって毛利氏勢力は因幡を去り、旧 巨濃郡は垣屋光成が領することとなった。垣屋氏は浦富の 桐山城を居城としたが、 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで垣屋恒総が西軍に与して滅ぶ。二上山城もこの頃に廃城になったと考えられる。近年の発掘調査では近世初頭のすり鉢片なども城趾から出土しており、元和の一国一城令まで城が存続していたと考えることもできる。
(※Wikipediaより)

歴史的には有名な城なので、各資料を転記する手間は省き、Wikipediaより引用させてもらった

中心部は整備されており、案内看板、駐車場、遊歩道があるニコニコ
しかし、この巨大な山城の魅力は、遊歩道を踏み外し、薮の中へ入らねば分からない…

遊歩道から逸れた北東の曲輪群、その斜面には何ヶ所かの竪堀が見られるニコニコ


遊歩道沿いに進んで行く時も、途中に二重堀切がビックリマーク


遊歩道の横の尾根上には階段状に曲輪群…

「二ノ平」ひらめき電球

その東斜面には畝状竪堀群!!


一気に進んで「一ノ平」ニコニコ

南斜面の竪堀ひらめき電球

南には遊歩道が堀切を通過している汗

南西の斜面にも竪堀ビックリマーク

南西には三重堀切!!
まず内側ニコニコ


真ん中の堀切合格

外側の堀切…浅い…


二上山城遠望カメラ

軌跡ログあし



岩美郡岩美町の城