松本砦 日野郡日南町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

さて、甚兵衛様、隊長候補との日南町の城巡りの締め括りに、松本砦(日南町下石見小字松本)へと向かった…

下石見の大原川と石見川の合流点に近い「松本要害」にある。
渡辺石見守の居城であったが、天正年間(1573~1591)に神福の妙見山城主田辺美作守に滅ぼされたと伝えられている。
(※日南町誌より)

妙見山合戦の伝説
尼子氏滅亡の後、備後国末渡より引越したる武士に、田邊美作守信季(今の神官田邊氏の祖という。)というものあり。当時九塚、石見の領主は、下石見松本城主渡邊石見殿といえり。美作守、その所領を横領せんと欲し、先ず九塚なる妙見山に城を構えんと、伊田新左衛門頼次という浪人のありけるを召し出して尋ね問いければ、新左衛門城地の様、具に語り聞かすること、まことにたのもしげなれば、美作守喜ぶこと限なく、新左衛門に一任して、築城を急がせけり。やがて城成就しければ、大石敷多北表東の方へつみ重ね用意を怠りなく、敵の寄するを待構えたり。松本方にては、待あぐみて、妙見山さして押寄せ、城内静まりかえるを見て、小勢と侮り、一気に攻め落とさんと、鯨波の声を挙げて攻め上る。新左衛門、時を計って、一度に大石を取くっさせれば、寄手の勢、石と人と一つになって、崩れ落るさま凄じなんというばかりなく、残少なに討果され、這々の体にて松本さして引にけり。
妙見山にては、目出度越年して、翌年の正月、更に新左衛門の計略によりて、使者を松本城に遣わし農民作付の間の和睦を申込み、且修好のしるしに、両城上下女子供に至るまで、両城の中央、是次原にて酒宴を催んことはかりしに、松本方は一も二もなく承引しけり。さてその日となりて、両方入り乱れて、大酒宴となり、いと面白く見たる折から、妙見山方にては、かねて、たくらめることとて、多里、生山より頼み寄せたる加勢の鎧武士、立岩谷、くぐる木峠より、どっと一度に押寄せ、銀山坂、家全原より鯨波の声をあげ、松本方をとりまきて、攻め立て攻め立てたり。松本方はもとより不意をうたれて、散々に敗北して、松本城引上げけれども、今は最早抗すべき術もなく、渡邊殿はいづこともなく、落ちにうせにけりとなん。
(※伯耆誌より)

多里は、恐らく亀尾山城、生山は亀井山城の事であろうと思われる…
ほぼ同じ話が是次城にも伝わっており、恐らく加勢の軍勢は、松本砦のみならず、酒宴をしていた是次原とは目と鼻の先の是次城にも攻め寄せ、同時に陥落させたのだろう…


甚兵衛様の案内にて、山道を登って行くと…
猪が罠に掛かっていたビックリマーク
猪にはたまに遭遇するが、いつも撮影する暇が無いので、今回はしっかり撮影カメラ

登り切った最初のピークには、社が祀られているひらめき電球


その南には、なかなかの広さの曲輪が展開している…

その東下にも腰曲輪がひらめき電球

尾根上の広い曲輪の北には堀切合格

この堀切は、西に竪堀となって続いているビックリマーク

そして、曲輪を一段挟んで、さらに堀切合格

さらに曲輪を一段越えると、再び堀切合格

階段状の曲輪群を登り切ると、主郭…

主郭の北には小さな腰曲輪が三段連なり、その先には細長い曲輪が伸びる…

そして、その先の尾根は堀切で断ち切られていた合格


松本砦遠望カメラ

実地踏査を元に作成した概略図ニコニコ

軌跡ログあし

こちらもご覧あれ(^-^)/
松本砦(甚兵衛様)

それにしても今回は、位置が明確でない城を一気に5城も踏破できた…
これも一重に案内していただいた甚兵衛様のお陰…
甚兵衛様、誠にありがとうございましたm(_ _)m


日野郡日南町の城