標高340m・比高50mの宮市の要害(江府町宮市)は、宮市城、要害城、イゲ城などの名でも呼ばれる
宮市城の創建年代や城主は不明である。構築位置については『日野郡史』に「字いげ谷に在り。北を大手とし、前に堀あり。東西は深谷にして険阻地。近地に地大名と云う所あり。」と記され、『伯耆志』は「村の東南二丁許にありて字を恵下谷と呼ぶ。伝詳らず。」とし、『日本城郭大系』もこれと全く同じことを述べている。
地籍図によると、現在の宮市集落背後の標高300~400mの山地の地域に「イゲ」の小字名が検出される。恐らく、この地域に城郭が構築されていたものであろう。
この「イゲ」の周辺には「地大名」・「唐川屋敷」・「中屋敷」・「下屋敷」・「五輪田」・「油免」などの小字名が検出される。これらのことより、山麓には現在こ集落付近に城主の館を中心に、給人団や商人などの住居が混在して一つの集落を形成していたものと考えられる。
このような城下集落(町)の形態より推定すれば、宮市の地大名城は戦国期以前のものと判断できる。
(※江府町誌より)
ちなみに踏査してみれば分かるが、上記の縄張図は東南に曲輪が展開しているが、実際は北西から南東に曲輪が展開している
南麓より直登
こちらは縄張図には記載されていない西六郭~西二郭
方向を変え、北西六郭
北西六郭に突き出した形状の北西五郭
北西四郭
北西四郭と北西三郭の間の堀切
北西三郭
中央を土塁で分断された北西二郭北段
北西二郭中央の土塁
北西二郭南段
北西二郭と主郭の間の堀切
主郭の北西腰曲輪
主郭の西腰曲輪
主郭
主郭の南東土塁
主郭南東の堀切
堀切を越え、南東曲輪群北西三郭
その南には堅堀
南東曲輪群北西二郭
南東曲輪群主郭と思われる最高所
この先は中国自動車道によって削り取られており、元がどのような形状であったのかは不明…
宮市の要害遠望
軌跡ログ
日野郡江府町の城