標高160m・比高80mの天主ヶ平(三朝町余戸)…
羽衣石南条に関係した伝説は、町内には数多い。これらの伝説は、戦国時代から南条家滅亡に至るまでの出来事を、後世の人々が身近な南条に結びつけてしまったのかも判らないが、そうしたものを拾い上げてみると、出城と云われるものが吉尾・余戸・森・福田などにある。おそらく監視所や狼煙を上げて通報する程度のものであったろう。
またそれらの砦のあった近くの部落には、城の家老だったと云われる系統を引いた家が何軒か残っている。一例をあげると吉尾砦の別所家、余戸の岸田家、森の山本家、福田砦の本田家などで、それらの家には南条家からの拝領品とか、家宝、巻物というものが所蔵されている。
余戸の岸田家の巻物の大要によれば、岸田は南条に抱えられ二百石にて湯村五丁かみの山鼻の上に小城を構えて羽衣石の番在り、大久保太兵衛と申す者を家臣に召抱え両谷川(三徳川・小鹿川か)出合いの処に居て奉公仕る。(後略)
余戸の天主が平の砦は岸田弥兵衛と家臣太兵衛二人で守護した事になっている。
余戸は古い書物には淀とも書かれている。余戸と淀では全く意味が違ってくる。
淀は水のよどみに関係がある地名であり、余戸は古くは「あまりべ」と読んで大宝律令(702)制で一家一戸とし、五十戸を里とし、里ごとに長を置いた。五十戸の残余があった場合に余戸といった。また帰化人を置いたところも余戸といった。また一説には砂原に住めない余分の戸数のものが移住したので余戸というとも云われる。
律令の制が布かれた大宝二年は、三徳山創建の慶雲三年(706)より四年前になる。余戸とその周辺に古墳が多数あることから見れば、三徳山創建のころ余戸の辺りは、立派な聚落があった事は確実であって、帰化人を置いた余戸ではない事になる。
この部落に天主が平という山がある。昔 南条の出城があったが、羽衣石落城と共に武士はここに土着して百姓になったという由緒を書いた古文書が本岸田家にある。
(※三朝町誌より)
北側斜面は崩され、登るのは不可能…
回り込んで西の田畑から直登
身動きが封じられる程の激しい薮を切り裂き前進
西端の曲輪へ、そこから数段登ると、堀切
しかし埋もれて浅くなってる
さらに階段状の曲輪群を登り、北主郭へ…
北東に3段の曲輪を見て、南へ…
その先には見事な堀切
堀切を越えて南へ進むと、北曲輪群と南曲輪群の間の中曲輪I
さらに南へと登り、南主郭へ…
Σ(°□°;)凄まじい笹薮
背丈を越す激しい薮を切り払い、南に1段の曲輪を経て南端の堀切
堀切は浅くなってるが、西へ落ちる竪堀は巨大で見事
そして南主郭の北の帯曲輪を見て、東斜面を下ると、記載の無いデカく深い溜池が…
これは後世の改変か…
しかし三朝町の城には溜池を備えた城が多いし…
そして東麓の曲輪群を見て下山しかけたが、恐ろしい程の急斜面
久しぶりにロープを活用して下山(;´Д`A
天主ヶ平遠望
軌跡ログ
かなりの薮と、険しい地形なので、心得の無い素人の方は登城をお控え下さい(;´Д`)
東伯郡三朝町の城