私には、感謝をしてもしきれないくらいの大恩人で師匠の、上司がおります。
その方は、大卒で右も左も分からない、不出来な私をビシバシ(笑)育ててくれた方。

大学卒業後、何を血迷ったか営業職に就いた私。22歳で社会経験のない小娘を育てるのは、当時30歳前の上司(女性トレーナー)です。22歳の私には、とてつもない大きな存在で完璧なひとに見えていましたが、自分がその上司の年を迎えると、どれだけのごくろうがあったのだろうかと。。。思わずにはいられません。その節は、色々ご迷惑をおかけしました。。。

トレーナーは、正直、とても数字に厳しい方で、私は二年間お世話になったのですが、その間何度「消えたい・・」と思ったか分かりません。
毎日毎日、まともな営業もできないのに数字という名の自分との戦いです。それに、恐ろしい上司が・・・www  なんてダッシュ

私は幸運なことに、とても営業力のあるトレーナーの下に配属されたので、すばらしい接客やお客さまへの対応を間近で見ることができました。ほめ上手で、言葉もやわらかっくって、肩書きのある方にはそれ相応の、くだけた方にはくだけた対応を、臨機応変という言葉はその上司のためにあるんだと思うほど。
当時の私はトレーナーのようになりたくてなりたくて、気がついたら口調まで真似ていました(笑)

そんなトレーナーから教わったことは数知れませんが、ひとにお手紙を書く度に、トレーナーを思い出すのです。

トレーナーは、お客様に常にお手紙を書いていました。私のお客様にもきれいな字でさらりと書いて、お客様に渡すように私に渡してくれました。そしてその都度、私に手紙の中身を見せてくれました。もちろん、私にお客様に手紙を書くように指導してくれたのです。

当時、どうしたら自分の気持ちが伝わるか、失礼のない気持ちの良い文面がかけるのか、何にも分からなかったので、手紙の書きかたを勉強するのはもちろん、何度となく書き直し、添削してもらいました。一年目は、一通の手紙を書くのに、5~6時間は平気でかけていました。
だから、勤務時間だけでは足りず、土曜出勤して手紙を書いたりして、熱心というか不器用というか。。
でもおかげで、直接いえないことも手紙で伝えれたり、お褒めの言葉をいただけたりするようになり、その手紙が決め手でご契約をいただけたりするまでになりました

一時、営業職から離れていましたが、普通の生活の中でも、事あるごとに手紙を書く’慣れ’は生きていて、結婚式の両親への手紙では、抜群に威力を発揮してくれました(笑)


最近は専ら、主人の両親に宛てたお礼の手紙を書くくらいだったのですが、娘の誕生日のきっかけで何通か立て続けにお礼の手紙を書きました。
自分でもイヤになるくらいの文章力のなさに辟易しながら、気持ちだけは十二分にこめて書く手紙。
文章力は、愛でカバーですww
そのときの感情をありったけ詰め込むので、何を書いたかあまり覚えてないのが難点。。ガクリ


何通か書いた手紙の一通に、祖母への手紙がありました。
旅行中の写真をプリントアウトしたので、アルバムに入れて手紙を添えて送りました。

ありがちですが、私の母と祖母は、長年嫁姑問題を抱えていました。
父母は、祖母のおかげで金銭面で大変苦労しており、私たちも贅沢な暮らしなんて到底できる環境には暮らせませんでした。
特に、私たち兄弟は祖母から可愛がられなかったのですが、私もまた幼い頃から喘息を患っており、田舎に帰るたびに発作を起こす孫が煩わしかったのもあるのでしょう、とにかく私たち兄弟はずっと祖母と距離がありました。

でも早くに病に倒れ、闘病生活が長かった夫に成り代わり、昔は大成していた家を一人で切り盛りしてきた祖母には、自分を誇示する何かが必要だったのでしょう、祖母は父にも母にも世話になった覚えはないの一点張り、、で数十年。数年前には母がとうとう絶縁宣言するほどの大問題にまで発展したほど。

何とか事なきを得て、今日に至りますが、今回の北海道旅行は母が祖母を誘ったのです。
一緒に旅行なんてしたことのない母が「なぜ?」と私は驚きましたが、母の気持ちを考えると、祖母を誘うことなんて私にはできなかったので、母の勇気の(?)おかげで、祖母の北海道旅行が実現したのです。
そのおかげで、私は祖母からとても感謝され、今までお世話になった感謝の手紙をだすことができましたきらきら!!

祖母はよほど嬉しかったのか、近所の人たちにまで私の手紙を見せたそうで、私の評価はうなぎのぼり(笑)
お盆に田舎に帰った母はその私からの手紙を読んで、「あんた詐欺師になれるよ」と一言。

って、そんな感想かい!!