福知山花火大会
夏ですな。まちなかは夏休み真っ只中のこどもが炎天下の中走り回っております。
この時期になると思い出す。
2013年8月15日
福知山花火大会事故
生まれも育ちの福知山の僕にとっては、この夏の一大イベントがなくなってしまったことをとても残念に思う。
あの当時、僕は友人宅でバーベキューをしながら花火を見ることになっていて、時間になっても上らないからどうしたんやろ?って思っていたら、現地に行っていた友人から連絡。
「やばい、屋台が燃えとる」
そしてあの事故は起こった。
当時も今も花火自体は悪くない、と僕は思っています。
あれは屋台側の危険物に対する安全措置を怠ったことが原因。
安全対策を徹底して、こんなことが二度と起こらないようにする。
だから花火大会の復活をという気持ちはめちゃ分かる。
一方で本当にやっていいのかと立ち止まってしまうのもわかる。
今、市内の有志が花火大会を復活させようと、福知山市に後援の請願書を提出したが、議会で不採択になった。
反対意見としては、「時期尚早」などが挙がっていた。
花火大会は福知山市の後援無しでは開催できないので、市がうんと言わないとどうにもならない。
昨年の夏は、事前告知なしでゲリラ的に行うことで市も了承した。
人が多く集まる事、屋台が出ることを恐れての判断だったと思う。
これまで市は再開の声を聞いていないので検討する余地はないとしていたが、約3,000名の市民の意見を以て、今後は検討の場を設けるとのことだった。
あの風景を見たことがある人はわかると思うけど、やっぱり花火はいいよな。
と同時に、子供のころからこの花火を見て育った僕としては、この風景を子供にも見せてやりたいとも思うようになった。
あれから10年が経って、今もなお時期尚早とするならばいつなら再開できるのか?
再開させようと遺族の方一人ひとりと面会し、奔走する有志の努力はいつになれば報われるのか?
できない理由はいくらでもある。だからこそできる理由を前向きに見つけていこうじゃないかという話。
僕自身は花火大会には賛成です。いろんな悲しさや辛さを抱えた方の気持ちを理解したうえでです。
花火大会に代わるようなイベントはない。
いつまでも記憶に残り、家族や友人たちときたこの思い出は一生消えることはなく沈殿する事もない。
いつかまたあの風景が見たいと思っている人はたくさんいるはず。
市民がもっと声を挙げるべき。
賛成・反対の意思表示をしましょう。
じゃないとどうしていくのがよいのか判断できないよな。
ここ数年で福知山は少し変わった気がする。
なんかやたら街を盛り上げようとする人が増えた気がする。
そしてその人たちは本気で街を賑やかししようとしている。
その気持ちが市民にも伝わっていると思う。
街は人の力によって大きく変わるんだというのを見た気がする。
ハコものやイベントだけではたやすく変わらない。
人のつながりこそ大きな事象を生み、人を惹きつけ動かす。
そしてまた
あの街に行きたいと思うんだろうな。
福知山はたびたび良くないニュースが流れ、そのイメージは他府県にも定着してしまっている。
「脱線事故があったところでしょ?」とか「水害のあった街」とか。
日本が閉塞している証拠だ。
そんなことを共有するは二度と起こさないよう対策を講じるときだけでいい。
そしてもう一度前を向いて一歩踏み出さなければ、この街はずっとそんなイメージのままで変わらない。
良いことには無関心、悪いことには敏感って最悪だろ?
昔、ACIDMANの大木さんが言っていた「今の日本人はもっと自分の一つの答えを持たないといけない」っていうのが身に染みてわかる。
周りの目とかあんま気にするな、俺はこう思うっていう意思表示をもっとすべきだ。
その場は与えられつつある。今の福知山の若手議員は市民の声を最重視して活動している。
上に媚びず、忖度せずおかしいことにはおかしいと勇気を持って戦ってくれている。
だから俺たち市民はもっと意見を言って、未来を創っていかなければならない。
なんとなく思っていることでもいいし、良くわからないでもいい。
興味がないなら、自分の人生がこれからどうなっていくのかYOUTUBEで検索してみ。いくらでも動画は出てくる。
今の日本の未来はこうなるだろう、とかね。
内に秘めていてもいいから、選挙とかでその思いを表してもいいと思う。
国も、議員も俺たちが選んでいるんだ。
だからもっと意見を持とう。
福知山の花火大会が再開するかどうかは市民の声が必要。
みんなであの夏を取り戻そうぜ。
京都府立日新中学校
2001年度に卒業して、かれこれ22年か。
皆さん、中学校の時が一番色々あったんじゃないでしょうか。
良いことも悪いことも初恋の女の子に振られた時も。
最も多感な時期で、こどもから大人になるグラデーションが最も濃いというか。
だからこの時の記憶って鮮明に残っていたりします。
僕が通っていた日新中学校では本当にいろいろあったので僕個人としては最高に楽しかった。
1999年~2001年まで在籍していた方は超共感できると思います。
①著名人に似ている・もしくはキャラ濃い先生が多すぎる
②事件
③部活
①著名人に似ている・もしくはキャラ濃い先生が多すぎる
・パンチ
当時、一番インパクトがあったのは美術の山下先生(通称パンチ)
パンチパーマ、、ではなかったけどかなり強面でしゃべりもすごいゆっくりで独特な方でした。
何回言っても名前を呼び間違うし、少なくとも僕が在校していた3年の間に、愛車のスカイラインが2回大破するなどその伝説っぷりは数知れず。2回目の時は、「なんてことだ」と膝から崩れ落ちるのを目の前で見ていました。確かあの後全校集会になったと思います。
あの時でまあまあ年齢も行ってただろうからもうとっくに退職してはるやろな。
とにかく強烈な方でした。パンチというあだ名は代々先輩から受け継がれてきたものです。誰も本人の前でパンチとは言いませんでした。怖かったから。
・ラッシャー
体育の西山先生は、本当に探偵ナイトスクープに投稿したいくらいラッシャー板前に激似の方。
さすがにみんなラッシャーって呼んでましたね。
体育の先生なので、割とノリがいいんですよね。ラッシャーって言われてもハハって笑ってましたね。
当時はまじでラッシャー板前の兄弟かと思うくらいでした。
ここ何年か前には校長先生にもなられたとのことで、出世されましたね。
・ジャパン③兄弟
何の科目を教えてはったのかはわからないのですが、先輩から先生の中にジャパン③兄弟がおるということを聞きまして。
そもそもジャパンというのはまちの暮らしに夢運ぶ、地域密着の量販店の名前で、そこのマスコットキャラクターにそっくりな先生が3人いました。
大町先生、岩瀧先生、高野先生、、だったかな。
中でもおおまっちゃんがなかなかのクローンぶりで、ただ眼鏡でおっさんの他の二人とはわけが違うオーセンティックぶり。
しかもなぜかいつもヴェルディのジャージを着て歩いていた印象。
たしかサッカー部の顧問の一人だったかと思います。
高野先生も、リンゴを素手で潰せるという逸話の持ち主で、握力が80キロあるとかないとか。
野球部の顧問で、よく高ノックをされてましたよ。野球部の連れ曰く、「打球が手前でシュートする」ので顎に直撃したりしていたそう。外野フライでは、守備を飛び越えてテニスコートの方まで飛んでたらしいです。外野の連れはよく見送っていたそうです。
・ガチャピン
女の先生で英語を教えていたっけな。顔面のビジュアルが完全にがちゃぴんでした。
個人的にはハンターハンターの初期のセンリツ。なんとなくイメージ湧きましたでしょうか。
あの頃、20代とかやったんですかね?ちょっとルックスからは何歳か定かではなかったんですが。
見た目はアレでしたけど、優しい先生でみんなからも人気あったんじゃなかろうか。
・だぜ
昔、学校へ行こうって番組あったの覚えてます?その中で、東京ラブストーリーっていう若い男女が色んなところで遊ぶみたいな企画があったんですけど、これに出てただぜにそっくりな先生がおりまして。
確か途中で赴任されたんだったかな?ちょうどその時に学校へ行こうのこれがやってたのと重なって、速攻であだ名をつけられておりました。あの時まだ20代前半だったんじゃないかな?俺らと年齢も近かったし、話も合うから人気ありましたね。
そうそう、体育の中西先生ですね。みんなだいたいはだぜって呼んでた気がします。
あの頃マガジンでやってたゴッドハンド輝が好きって言ってました。
今改めて写真を見ても、あんまりだぜには似てないのですがw、当時はご愛嬌という事で。
大雪の時、やんちゃ組により愛車のランサーエボリューションが雪で埋められてマフラーの中も雪まみれになってましたね。
・きむしげ
木村茂、通称きむしげ
数学の先生
サッカー部の顧問(サブ的な)
サッカーではその数学の知識を存分に発揮し、コートのライン引きでのみその力を発揮されておりました。
あっちやこっちからメジャーを引っ張ってはそのライン上に石灰を引く。
コートのライン引きは数学を使ってやる、それを教えて頂きました。
・なっつ
なっつって呼ばれている出っ歯の先生がいました。
・溝川
理科の先生。至って普通の先生だったけど、ある日体育館の前を通ったら、やんちゃ組に背負い投げをされていました。
マット無しの背負い投げはマジで危ないのでやめましょう。
・山さん
数学の先生。あの時まだ20代後半?既に頭がスケスケで特に女子から嫌がらせをされていましたね。弁当にチョークの粉を入れられたりとか。でもすげーいい先生だったのは覚えています。中3の時に担任だったのですが、友人が高校受験に失敗して私立に行くことに。後日聞いたら、山さん玄関で土下座をしたとのこと。そこまでできる先生ってあんまりいなくないすか?
山さんの思い出としては、保健体育の授業で性の勉強を担当してくれた時、セックスという言葉が恥ずかしかったのかセクサセクサと超早口で言い済まそうとしていたのがとても印象に残っています。多分童貞だったのではという憶測が流れました。
先生だけでも相当濃い人ばかりで学校楽しかったですよ!先生と生徒が割と近い目線でコミュニケーション取っていた気がします。先生のストレスも半端じゃなかったとは思いますが、少なくとも僕は良い環境だったなと。
その頃の先生は、今や校長先生になっていたり退職されてたりと時代も変われば当然。
同級生や先輩が母校の先生をやってたりしますしね。なんか時の流れを感じますな。
②事件
事件、というと聞こえは悪いですが、当時僕が見聞した中でこれはおもしろいなと個人的に思ったことを羅列してみます。
多分に若気の至りが影響した内容なのでそんなことあったのか程度に留めていただけると幸いです。
・1年生の時、初めての体育祭で3年生のやんちゃ組がブラジャーを付けて爆走
・授業中、ふと窓の下を見たら「聖火ランナーや」言いながら、竹ぼうきを燃やして走っていた先輩
・向かいの校舎の職員室の窓に、濡れたティッシュペーパーを大量に放り投げるやんちゃ組
・窓ガラスが60枚割られる(当時新聞にも載った気がする)
・1年生の時に、ある奴からぞんざいに扱われた子が、後に空手世界大会2位になり、力を付けたことで報復。眼底骨折。
・たばこの臭いがしたので女子便所を見ると、入り口の引き戸を少しだけ開けて口だけ出して廊下に煙を吐く女子
・ピロティの天井にある火災報知機を狙ってサッカーボールを蹴り上げる(当然鳴る)
・転校生がやんちゃ組にいじめられ、前の学校の連れが敵討ちに集団で乗り込みに来る(裏門までなので未遂)
・サッカー部のある先輩のスパイクを先輩たちが山に捨てたが、後日そのスパイクを本人が発見し拾ってくる
・卒業生の記念植樹の木柱を逆さまに差し直すことがサッカー部の伝統行事と先輩に教わったが、翌日全校集会
・パンチのスカイラインが2回大破
・サッカー部の顧問が嫌いだった連れが、毎朝顧問の下駄箱を凹ませていたが、ある日「おーい、もうやめてくれ」と直で言われているのを見たとき
・手抜きしていた陸上部の連れが、顧問に叱られ最終的にグランドで背負い投げをされているのを見たとき
・ある日、同級生が自宅で目を覚ますと警察に取り囲まれていた時(他校と喧嘩してケガをさせたかなんか)
ざっと思い出すだけでもこんな感じですかね。
当然、今はこんなことはないと聞いています。
てかあったら問題になってますしね。
時代、だったんでしょうね。
③部活
小学校では他校のサッカークラブに在籍していたのですが(我が小学校にはサッカークラブがなかった)、進学してもまた同じメンバーでやれるっていうのが大きくて。で、別のサッカークラブに在籍していたやつとも中学では同じチームとしてやれるっていうのがめちゃ嬉しかったですね。
小学校の時のクラブチームは最終的には、市内でTOP3には入るような感じだったんで、そこに強力な仲間が加わり、中学では常に市内で1位か2位くらいの成績を残せていました。僕たちが主体になってからの戦績は、優勝か準優勝がほとんどだったと思います。最後の夏の大会では、まさかの決勝リーグ敗退でその先には行けなかったのですが。
当時顧問は、府下大会までの交通費、宿泊先を抑えていたくらい期待されていたんですね。
僕たちが3年生の時に、当時京都で2位だった泉川と練習試合をして、2-1で接戦の末負けてしまったんですが、このレベルでも戦えると確信。
しかし、京都で一番強かった藤森と対戦した時は、前半3軍(1年生)に対して5失点。後半1軍(3年生)が出てきて、9-0で敗北。京都1位と2位でこんな差があるのかと愕然し、腹が立った面々は藤森のサッカーボールを1個パクって帰りましたw
正直、めちゃくちゃ練習してた自負はあったんですが。
最もスポーツに取り組んだ時代でもありました。
何よりこのメンバーでサッカーをすることが楽しくてしょうがなったですね。一癖も二癖もあるやつらばかりでしたが、サッカーだけじゃなくて普段からも仲が良かったし、みんなでラーメン食いに行ったり、買いものに行ったりとかしてたもんな。
集団でチャリンコ漕ぎまくる中学生なんて結構目立ってたと思いますがw
さっきも言ったとおり、練習だけは本当にやりきったと思います。
正直小学校の時は、優しいコーチのもとで楽しいサッカーをやっていたのですが、中学の顧問が結構厳しくて。
あと、やっぱり部活の中でも縦社会はあって、初めはそのカルチャーに戸惑ったものでした。
暗黙のルールで先輩は立てないといけなかったりとかね。
その先輩が練習を頑張ってるんだから、俺らも頑張らないとみたいなところはありましたね。
顧問が厳しかったという話。
夏休みはお盆以外ほぼ練習。
サッカー部名物の1時間ダッシュですね。
20m間を色んな走法で走りまくるというやつで、灼けた砂で手押し車とか、足を持ちながら歩いたりとかとにかく身体を苛め抜きました。炎天下で水分補給も禁止(誰も飲みに行こうとしないから実質禁止みたいなもの)、そのあとは、中学校から長田野公園を一周する2キロ走。そして足の甲だけで100回、太ももだけで100回、頭だけで30回のリフティングね。これができないと一生やらされるという。それらが終わったら、200m全力ダッシュ。下位はもう1周追加。
そしてようやくシュート練習、戦術的な事やって午前の練習は終わり。
今思い出しても吐き気がしますが、あの頃みんな体力お化けで、午後からも集まって一緒にサッカーしたりしてました。僕個人的には、シュート力を付けたかったのでパワーアンクルを毎日部活と寝る以外は付けてトレーニングしていました。
そのおかげでシュート力はついたものの、知らない間に腰を疲労骨折していたのですが、病院に行く頃には直ってました。
ただ、真夏の1時間ダッシュは保護者からクレームが入り、2年生の時は1時間サーキットという若干軽めのメニューに変わりました。1時間ダッシュを経験している僕ら的にはなんかぬるいなって感じでした。
雨の日はグランドが使えないので、3階建ての校舎を使って、手押し車、けんけん、ダッシュ、おんぶなどして階段を何回も往復する。
本当に死ぬほど鍛えました。
中学生って一番伸びる時期だから、この時の貯金で今後のスポーツライフが変わってくるとよく聞きます。
結局、中学校とは初めて自分という自我を認識する時期で、同じような境遇の同年代が複雑に関わり合う社会現場
そりゃ軋轢もあるし、大人に対しても反発したりしますよ。
そこに耐え切れなくなって学校に来なくなる子もいたし、毎日何かが起こっていたし。
でも今、自分にも子供が出来て、いずれ小学校、中学校、高校、大人となっていく中で、いろんな経験をして人間が形成されていくんだろう。
親心で言えば、できれば苦労してほしくないし、楽しく元気に過ごしてもらえたら本望。
あの頃の自分の親もそんな風に思っていたのかな?
僕自身は途中で色々道を逸れたりもして、親が望むようなこどもにはなれていなかったのかもしれない。
こうなってほしいという思いには応えられなかったなと思ったりします。
でも、今の友達は子供のころからしこたま同じ景色を共有した仲間で財産だと思ってる。
それこそ中学時代にできた友達は今も付き合いがある。
辛いとき、やっぱり支えになってくれたこともあった。
当然家族もそうだ。
とにかくこどもには、家族・友達を大切に、いろんな場面を共有して成長してほしいなと思います。
この先どんな世界が待っているのか、親としてはとても不安に思ったりしますが、こどもはこどもで適応していくのだろうと思います。
今日もニュースで母親が子供を突き落としてそのあと自分も死ぬというショッキングな話も耳に入ってきました。
そんな悲しいことにどうしてなってしまうのか。国が、政治がとかそんなの正直どうでもいいんですよ。
授かった命、せっかくなら楽しくやりたい。だから、辛い所から逃げ出してしまえばいい。
僕は、学校の勉強も大事だと思うけど、生きるための考え方をもっとグローバルな視点で学ぶべきだと思います。
中学校や高校では、そういうことまったく学んで来なかったし、そういうことすら知らなかったから。
日本の教育では、周りに合わせることが美徳とされていて、他人と違うと排他される。
そんな教育で広い視点なんか持てやしない。
今の環境を変えられないと妄信させていることこそが、日本の教育の最大の失敗だと思います。
このへんで。
11年ぶりに更新
お久しぶりです。
たまたまネットサーフィンしてたら、僕が昔書いてたアメーバブログを発見。
最終更新が2012年。そういえばあの頃よく日記書いてたなと思いだしました。
久々に当時の日記を見てみたんですが、俺くっそはずいこと書いてるw
かなり赤裸々系、内省的といいましょうか、学生時代~社会人なりたての20代っていうのは環境が大きく変わるから、人生に悩んだりとか往々にしてあるということなのでしょうか。
目を覆いたくなるようなことも書いてたりして、総じて俺って痛いやつだったんだと11年越しに知りましたね。
ブログは、大学を卒業するかしないかのあたりから始まり、社会人になって仕事のこととか友達と遊んだこととか、ライブに行ったこととか、楽器買ったこととか、あの頃付き合ってた彼女のこととかも書いてたりして、なんだか懐かしく、甘酸っぱい気持ちにもなります。
あれから11年、今では別の子と結婚して、3人の子供が生まれ、毎日悪戦苦闘している日々。
仕事でも役職を拝命し、より責任のある立場で忙しくさせていただいている。
友人との遊びは減ったし、ライブもまったく行けてないけど、これはこれで楽しく過ごさせてもらってる。
11年前には想像もしていなかったことが今手の中にある。
有難いという言葉のとおり、存在するというのは奇跡的なことなんだと最近思ったりもします。
失くしたものも含めてこの日々の礎になっているのだとすれば、今の自分があるのは紛れもなく今まで出会ったもののおかげなはずで、つい忙しない時間の中で忘れがちになるけど、いつも心の中にあるということを忘れてはいけないなと思う。
そう思わせてくれること自体が奇跡的なことだ。
まあやっぱり内省的になったけど、たまにこうやってマインドセットしてやることが大事なのかも。
それではまた。


