聖者曰く | CHANGES

聖者曰く

巷では、芸能ニュースでまっちゃんが性加害問題で裁判のために活動を休止したり

 

サッカー日本代表の伊東が女性と関係を持ったとかで相手方に損害賠償請求をしたり

 

政治では、裏金問題でめちゃくちゃ信用を損なっていたり

 

内縁の夫が5歳のこどもを殺したり

 

子供が親を殺したり

 

 

この世はなんて雑音に囲まれているんだろう。

 

到底理解はできない事件だったり、でも当事者の気持ちになったらそうでもなかったり

社会に触れることで見えてくるもの

逆に一切の外界との接触を断つ北センチネル島の原住民みたいになりたいわけではなく

かといって、見聞したくないことまで耳に入ってくるから

日々感情が動かされ、いろいろ考えるんだと思う。

 

何が言いたいかというと、

この目に映るすべてをただ享受するだけではなく、

己というフィルターに通して濾したものが溜まっていくのだと

その濾したものの量の問題ではなく、

「こうだ」

と言い放つことでまた反芻するその繰り返しが我思う故に我ありなのだと

デカルトの考えを自分なりに解釈して

 

大学で仏教を専攻した結果、割と最近までは「仏の言葉と一般人の言葉と何が違う?」

と区別を避けていたのだけど、

ここ最近は、そうじゃないんだと。

仏という他の追随を許さない経験者が放つ言葉こそ、価値があるのだと。

そしてその教えに付いてきた者が道を造ってきたのだと

大道、辿るべき教えという正攻法のルートには、そうした歴史や普遍性が伴っていて

ただ在るだけではないのだと感じます。

 

今を示すとしたら秒針が告げる音だけが唯一この耳に刻まれるもので

瞬く間に音は収束して無音となり、過去に鳴ったものになるのだ

そしてこれから鳴るだろうその音も刻一刻とその時は迫り、

背後に近づいてくる

秒間にもグラデーションのように変化の移ろいがあって

季節のように

だから常に死へと向かいながら細胞が流動する変化の中で僕は過去を振り返る

それを摩耗と言うのならば、実感するにしては余りにも小さい

行きつく場所はだれしも同じ ただその時を迎えるのみ

聖者の問いかける声が、進むべき道を照らしてくれている

伴う犠牲とその眼に映る先人の背中を両天秤に掲げながら、

いずれその手から零れ落ち、何もかも無くして僕も無くなる

 

If I were to represent the present moment, it would be solely marked by the sound announced by the second hand.

In the blink of an eye, the sound converges into silence, becoming a thing of the past.

And yet, the sound that is about to resonate in the future approaches moment by moment,

drawing closer from behind.

There is a gradient of change even within each second,

like the seasons.

So, amidst the constant flux of cellular movement towards death, I reflect on the past.

If one were to call it weariness, the sensation would be too small to perceive.

The destination reached is the same for all—only to embrace that moment.

The voice of the sage's questioning illuminates the path to follow.

Balancing the sacrifices and the reflections of ancestors in their eyes,

eventually slipping from their grasp, losing everything, I too will cease to exist.

 

こんなバンド名があったらギネス記録に乗れるな