練馬区高野台にある効かせる施術の整体院
インコンディションのセキグチでございます。
「日本的霊性」という本を読みました。
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日本的霊性 (岩波文庫)
907円
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著者は鈴木大拙という仏教学者。
以前にこの鈴木大拙の「日本的霊性」を引き合いにだした本を読んでいたので(これやこれ)、
そのうちにこの本を読んでみたいなと思っておりましたところに
図書館でこれを見つけたので、借りてみました。
いくつかの出版社から出ているみたいですが、
これは元のやつのルビや句読点を補足した本みたいです。
(多分アフィに貼っているのが元のやつに近いのかと思います)
内容ですが、超ムズイ!(苦笑)
ギュウ~と乱暴かつ簡単に書くと、
元々日本人がもっていたが表に出ていなかった霊性が
法然・親鸞が出てきた鎌倉時代に覚醒した。
そして日本的霊性には大地性が必要ということ(以上)
それがどういうことかという理由がガ~と書かれています。
本では緒言に1~5篇と分かれていますが、
霊性については2篇までで、3篇からは仏教(浄土真宗系)的な内容でして
サラッと知りたいなら緒言で良いし、
この本に限っては、桐田清秀さんが書かれたまえがき部分に
鈴木大拙のいう日本的霊性を分かりやすく説明してくれています。
万葉集dis、平安時代dis、神道や他の仏教などにも○○が足りないが
禅と浄土真宗は日本人に合っている的な話が多く、結構グイグイと押しが強い本だなと…。
これを読んでスッと
霊性わかったー!!
とはなりませんが、
大地性が大事なのは現代でも間違いないのでそこは気をつけていきたいなと。
抜粋
精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質との奥に、今一つ何かを見つけなければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などいうことは免れない。それでは人間はどうしても生きて行くわけにはいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。
…
霊性を宗教意識と言っても良い。ただし、宗教というとふつう一般には誤解を生じやすいのである。
…
それで宗教意識とは言わずに霊性と言うのである。
…
すなわち霊性に目覚めることによって初めて宗教がわかる。
霊性と言っても特別なはたらきをする力か何かがあるわけではないが、それはふつうに精神と言っているはたらきとは違うものである。精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越している。
禅が日本的霊性を表詮しているというのは、禅が日本人の生活の中に根深くくいこんでいるという意味ではない。それよりもむしろ日本人の生活そのものが禅的であると言ったほうがよい。
霊性はじつにこの明きものをもっと根源的にはたらかしたところに現れ出るのである。明き心清き心というものが、意識の表面に動かないで、そのもっとも深きところに沈潜していって、そこで無意識に無分別に莫妄想に動くとき、日本的霊性が認識せられるのである。日本的霊性の特質はその莫妄想のところに現れるのであるから、日本的生活の面にもおのずからそれが読みとられる。これをふつうには禅思想の浸透と言っているが、それよりも、日本民族の立場から見て、日本的霊性が禅形態で云為していると言ってよい。
霊性の奥の院は実に大地の座にある。平安人は自然の美しさと哀れさを感じたが、大地に対しての努力・親しみ・安心を知らなかった。したがって大地の限りなき愛、その包容性、何事も許してくれる母性に触れ得なかった。天日は死した屍を腐らす。醜きもの穢らわしいものにする。大地はそんなものをことごとく受け入れて何らの不平も言わぬ。かえってそれらを綺麗なものにして新しき生命の息を吹きかえらしめる。平安人は美しき女を愛して抱きしめたが、死んだ子をも抱きとる慈母を忘れた。彼らの文化のどこにも宗教の見えないのはもとより然るべき次第である。
地獄も極楽も此土にあるとは言わぬが、此土に対する認識の不足からくる見かたである。われらの考えが大地遊離的方向に進むと、そこに地獄も極楽もあるが、われらは大地そのものであるということに気づくと、ここが直ちに畢竟浄の世界である。考えそのものが大地になるのである。大地そのものが考えるのである。そこに大悲の光がひらめく。大悲のあるところが極楽である。それのないところが地獄必定である。真宗の信仰の極致がここにある、またここになくてはならぬと、自分は言う。しかしてここに日本人の宗教信仰的自覚があるのである。これを日本的・霊性的自覚と言う。
霊性のはたらきの二方向は、知的直覚と意的直覚とであるというと、前者は感性と情性の上に働き、後者は意欲の上に働くと見ておきたい。人間生活の意欲面は行為である、所作である。ここに因果応報ということが考えられる。罪業・死・来生などの観念もある。これはいずれも仏教思想に属するものと思われもしようが、なるほど語彙は仏教でも、思想は一般に宗教意識の所産である。
宗教的に清く澄んだ心、あるいは愛にみちた心は、かならずこれに対してもっとも敏感ならざるを得ないのである。観音さんは求むるところあればかならず応ずると言われるが、豊かな霊性の持主は、かならずそのときどきに動く人の心を直ちに酌みとるものである。あるいはこう言ってもよいかも知れない―宇宙の大霊は、超個己の一人は、歴史的時間の推移につれて、その中に生死する個己の霊性のもっとも受容性に富んだものの上に、みずからを映すものであると。それゆえ、偉大な個霊は、宇宙霊すなわち超霊の反射鏡であると言ってよい。偉大な個霊の動きを見ていると、超霊の内容が読みとられると言ってよい。親鸞聖人の偉大なる個霊は、これを成し得たのである。彼は当時、大地に接して動いていた日本的霊性の真実に、かくのごとくにして触れ得たのである。
神道の経験は感性的・情性的で、霊性的ではないからである。霊性的直覚なるものはまず個己の霊のうえにおいて可能である。すなわち一人の直覚である。ところが神道には集団的・政治的なものは十分にあるが、一人的なものはない。感性と情性とはもっとも集団的なるものを好むのである。それは集団の上にみずからを映し出すことによりて、みずから存在がもっともよく認められるのである。霊性的直覚は孤独性のものである。これは神道にない。神道に「開山」というべきもののないのはそのゆえである。「開山」はどうしても超個己を個己の上に映した一人であるから、集団性を持ちあたわぬ。集団は一人の「開山」をめぐりて集まり来るものである。集団の上に一面に拡がっているものには中心がない。ある意味で、それは全体的であるが、この種の全体性は中心のない集合で、いわばただの群衆でしかない。その時々の感性と情性との動きにまかせて蕩揺不定の行動をなすのが常である。これらは霊性的直覚によりて指導せられねばならぬ。なんとなれば霊性的直覚の上にのみ形而上学的体系が加えられうるのである。しかしてこの体系がないと感性および情性に基づく諸直覚だけでは定着性がないからである。ここに神社神道と宗派神道との区別が出てくるのである。
時間を直線的に考えると、すべてが幾何学的図式になって、天地の化育性なるものがなくなる。生きるということは長く線を引くということではない。何千年か何万年かないし何億年でもかまわないが、始めのある生きかたはまた終わりがなくてはならぬ。無限は過去のほうへも未来のほうへもあてはめられなければならぬ。これは有限な直線ではいけない。実際は、直線は皆無限である。有限であるから直線なのである。無限をある点で切って見るから、その間だけが直線なのである。無限は直線で有り得ない。ここから始まるといえば、ここで終わるということがすでにその時定められている。そんな限定をうけるものは生きていない。生はどうしても無限でなくてはならぬ。すなわち直線であってはならぬ。生は円環である、中心のない、あるいはどこでもが中心である円環である。この生の無限大円環性は霊性でないと直覚できないのである。その他の諸直覚はどこかで限定を受けなければならぬようにできている。
…
直線的時間観で、世界を見、歴史を見、生を見ている人々は、その直線、その時間が、無限大円環を限定して見るので、かく限定することが、かえって抽象的で概念的であることを知らぬのである。霊性的直覚では、時間と空間とで動いていると思われる生命は、その実、無限大円環性なることを見るのである。
言い回しが独特だし、意味をしっかり理解していないで
そのまま打ち込むのってしんどいですね(笑)
これは借りて読む本でなく、
買ってじっくり&何遍も読み直す本だと思いましたね。
まぁワタクシは買わないですけども…。
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