盛岡藩(南部藩)の初代の殿様は一体誰でしょうか。本を読むと、「初代信直公」と書いているものと、「初代利直公」と書いているものがあり、私は度々混乱させられてきました。
信直公が初代であると主張している人は、恐らく「時の政権に不来方(盛岡)の地への普請の許可を取りつけ、立藩の素地を作ったのは信直公なのだから、やはり彼が藩祖である」と主張するでしょう。
利直公が初代であると主張している人は、「いやいや、信直公は関ヶ原の戦いの前年(慶長4年=1599年)、徳川の幕藩体制が確立する前に亡くなっているのだから、やはり初代は利直公である筈だ」と主張するのかもしれません。
で、結局分からなかったもので、数か月前に「もりおか歴史文化館」の職員の方にその事を話した所「現在盛岡では、信直公が初代という事で見解を統一しております」との事でした。ということで、私もそれに従った形で記述をしたいと思います。
さて、今回は藩祖信直公でも二代利直公でもありません。三代重直公の事について書いてみたいと思います。
この南部重直公、一般的にあまり評判の良い殿様とは言えません。それでは、『暗君である』とされる代表的な指摘の幾つかを上げてみましょう。
① 幕法に従わず、幕府に無届けで勝手に新丸の増築をしたり、愛妾(あいしょう)との痴話喧嘩が元で参勤交代に遅れ、寛永13(1636)年に幕府から逼塞(ひっそく)処分を受けた。
② 万治二(1659)年、独断で幕府の重臣堀田正信の弟である虎之助(後の内蔵助=くらのすけ)を嗣子(しし=跡継ぎ)に定める。(内蔵助は同年五月に一八歳で病死)
③ 万治三年(実際は翌年の寛文元年)、目隠しをして家臣帳に墨を引き、それらの人々に暇を出した。馘首(かくしゅ)された者は42人に及び、その石高は6463石に達した。
④ 臨終の席で後継を問われた時、だれを後継者にするか決めずに亡くなった。その時に頷くだけでも後継者を承諾した事になるのに、それをしなかったせいで、藩は改易(取り潰し)の危機に瀕した。結局、十万石あった石高を八万石に減らして八戸藩二万石を新たに分割・立藩する事で決着した。
……といったところです。
とはいえ、「これだけをもって、重直公を暴君・暗君だと断じるのは誤りである」といった反論もあります。
まず重直公功績の一つに街道整備があります。それまでの奥州街道はあまり整備が進んでいませんでしたが、なるべく曲がった個所をまっすぐにしたり、山道を平坦地に移したり、道幅を三間で一定に整えたり、さらに街道の両側に松の木を植える徹底ぶりで、盛岡以南は手本にした日光街道の様に非常に美しくなったそうです。
さらに秋田街道、鹿角街道、宮古街道、大槌街道、釜石街道、野田海道までも整備した為に、物流が活発化して、特に三陸地方の発展に寄与したといいます。北上川を用いた船運の活性化にも功績があります。
また、利直公の後を受け、盛岡の南部に用水路である鹿妻穴堰(かづまあなぜき)を完成させ、紫波郡下の穀倉地帯を開拓しましたし、慶安年間には本格的な人口調査も行い、城代や代官の職制を定め、年貢や諸税に関わるルールの原型も確立しました。
寛永年間の凶作の際には藩庫を開放して領民の救済に使ったという記録もあります。それから、これは中々思うようにいかなかったと思いますが、当時の盛岡藩領内は、どうしても辺境の地であった為か、文化・風俗が野蛮になりがちで、なんとか文化振興が出来ないかと色々と試みた部分もあったようです。
元々、華やかな江戸藩邸で生まれ育ったせいか、文化的なものに対する志向が強い人物だったらしく、お預かり人である栗山大膳や規伯玄方を厚遇したといいます。
それから上記の④の『世継ぎを決めず亡くなった失態』に関してですが、これも重直公は新たに養子をとろうと手続きをしていたところ病に倒れ、そのまま亡くなってしまったというのが真相のようで、別に死の際にへそを曲げたり、意固地になったりして、という訳ではなかったようです。
それともう一つ、③の四十二名を馘首した所謂『墨引き人数』と『盲点御暇の人数』なるものに関してですが、「これは重直公を批判したい人物が、この処分劇に尾ひれを付けて大袈裟に捏造したものではないのか」と指摘する人物もいるようです。
ただ、寛文元年に大幅な人員整理をしたのは事実のようです。「戦国時代の土豪的な性格の強い譜代家臣層が多かった為にそれが既得権益化してしまい、思い切った改革の足枷になる可能性もあったようだし、近世大名としての絶対権力を確立してゆくプロセスの中では避けて通れない事であった」という意見もあります。
実際、重直公は一門払いを断行し、彼らを藩政から切り離すと新参の腹心に藩政一新を命じ、家臣に対する家禄の没収、減封、地方知行の蔵米取りへの変更、それに、利直公が家臣達に下した先祖伝来の所領を安堵する内容の黒印状まで召し上げるといった内容でありました。これは一旦権益から家臣達を引き剥がし、「従順なサラリーマン化」をさせてゆこうという考え方ではないでしょうか。
これは戦国時代から平和な時代に移行してゆく過渡期に、何処の藩でも大なり小なり起こった事ではないかと思います。ちなみにお隣秋田県の久保田藩では、佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)公が常陸国から引っ越してきた際、異を唱える家臣達を大量に粛清したそうです。こうして戦国時代特有の価値観から脱する事が出来ずに、平和で政治的な駆け引きがものをいう時代に適合できない武士はどんどん淘汰されていきました。
しかし、矢鱈と怒りっぽくて独断的な部分も多く、『面倒臭い殿様』であった事は事実であったようです。『祐清私記』(ゆうせいしき)によると、下手に諫言(かんげん)してくる家臣に対しは耳を貸すどころか、かえって家禄を没収したりする為に「皆口を閉て一言申し上げ候者」もいなくなり、中には「無法非儀の御方」などと嘆く者もいたそうです。
とはいえ、この独裁者振りによって盛岡藩の基礎が固められた事も事実ではあります。そういう意味に於いては、藩政の確立期に近世大名の性格を如何無く発揮した典型的な江戸時代初期の大名の一人だったと言えるのではないでしょうか。