上級ホ・オポノポノのなかに、「受胎・中絶・流産」というタイトルがついた祈りの言葉があります。

タイトルは「受胎・中絶・流産」となっていますが、祈りの言葉をよく読むと、「私たちの家系に存在する…すべての先祖との関係について」ホ・オポノポノを行います、とあります。

「トラウマとなっている、痛々しく不要な記憶、障害、エネルギーの全てを、浄化し、純化し、切り離し…」とあるので、出産だけでなく、おそらく虐殺された先祖のためにもこの祈りの言葉を使えるのだろうと思います。

 

実は私には、そういう先祖がいます。

私の祖父は、戦前、宇都宮から上京して、東京の江東区深川で材木商をしていました。ところが、昭和20年の東京大空襲の時に、9人いた家族のうち、妻と幼い3人の子供の計4人が亡くなってしまいました。

当時東京はほとんどが焼け野原になって、死者は20万人とも言われています。

祖父は生き残ったのですが、その後魂が抜けたように無気力になってしまいました。祖父は父がずっと介護していましたが、私が小学生の時に74歳で亡くなりました。

その父も昨年亡くなりました。

 

東京大空襲はもう70年も前の話なので、当時亡くなった人はもう成仏されているとは思いますが、そういう出来事に遭遇した場合、当事者の心の傷はなかなか消えないだろうと思います。

 

私の父は私が生まれる前、そういう心の傷を負い、私の母も、いろいろな重荷を父と一緒に背負いながら、私を生み、育てました。

子供の頃ウニヒピリは母親のウニヒピリの感覚を刷り込んで育つものだと思います。

私はもう還暦を過ぎましたが、おそらく当時母親が感じていたであろう恐怖心を自分の人生の基礎低音として受け継ぎながら、長くその感覚の中で生きてきました。

 

ホ・オポノポノや、フナの知識に出会って、ようやく、この感覚の理由が納得できました。

 

この得体の知れない恐れは、ウニヒピリ、潜在意識の中にある記憶です。おそらく戦争の爆撃で殺された恐怖と無念さと無力感の入り混じった感覚です。私の先祖、祖父や父や母が、念体として作ったネガティブエネルギーを、直感的に、自動的にコピーしたもので、私の肉体のレベルの自己、ロウセルフとは違うものです。

 

ですが、この念体は紛れもなく私の潜在意識の中にあります。

 

全ては原因と結果の連鎖で起きていることを考えると、このことは私が日本人として戦後の東京に生まれることを選択したことに伴うリスクのひとつですから、自己責任だとも言えます。

それは父にしても、祖父にしても同じ。

彼らが、もし霊的な真実を知っていたら、魂をなくしてしまうほど、苦しまなくて済んだのではないか。おそらく、残りの人生を無駄にしないで済んだはず。

 

それにしても、この得体の知れない恐怖の正体を見抜くのに何十年もかかるとは。

 

「上級ホ・オポノポノ」は、浄化の文脈には「神聖なる存在」と自分の潜在意識だけしか出てこないのですが、それは自分が他と切り離されて独立しているという感覚ではなくて、自分は過去の先祖たちと連続しているという感覚を前提にしているようです。

 

それはどのように連続しているかというと、私たちのロウセルフは、記憶の集合物であり、その記憶は、ほとんどが家族から引き継いだものであり、家族の中には先祖の記憶が残っているという理解だと思います。

 

実際、私の身体の中には、私が生まれた前に起きた東京大空襲の虐殺の悲しみが浸透していました。

 

一旦、どこかで起きた苦しみや悲しみのエネルギーは、念体として当事者の身体の中に残り、その波動が他の人につながり、時間や空間を超えて、拡散していきます。

 

私たちは、いつも、そのような、どこかの誰かが出したエネルギーと接触しています。そして、私たち自身も、常に何らかのオリジナルのエネルギーを発散しています。

一説によると人類が出す想念の75% はネガティブなものだと言われています。

 

ホ・オポノポノが視野に置いているのは、人類がこういう「ネガティブな想念」の連鎖を断ち切る習慣を作ることなのだろうと思います。

今朝夢を見た。

あまり夢を見ないので、珍しい。

昨日いろいろ考えたからかもしれない。

 

爆走している車のボンネットの中。右側。すぐ下が右の車輪。

どこに向かっているのかわからない。いつ止まるのかもわからない。

ただ車と一体化してどこかに向かっている。

 

運転しているのがだれかはわかっている。

だが、彼がどこに向かっているのか、いつこの状態から解放されるのかわからない。

 

それがいまわたしのウニヒピリが感じていることだ。

ウニヒピリは、なぜ、なんのためにここにいるのか、どこに向かっているのかを知らされていない。

外の景色も見えていない。

これでいいのか。

ただ果てしないストレスにさらされている。

 

ウニヒピリが本当にしたいことは、まず、この暴走を止めること。

そして、ボンネットから外に出ること。

そして、自分の足で、歩き出すこと。

周りの景色をよく見て。

 

だが、よく考えると、これは、すべてウニヒピリの妄想である。

ウニヒピリが、それがそうなっていると、幻想の中で感じているだけである。

ウニヒピリの妄想が、非二元論の正体。

 

それは夢なのだ。

ウニヒピリには夢と現実の区別はない。

ウニヒピリが生きている世界は、ウニヒピリの聞かされた妄想の世界。

どこかのだれかに聞かされたことを作り出して見ている世界。

 

ウニヒピリはなぜその場所に自分の身を置こうとしたのか。

それは何かを利用しようとしたからだ。

自分を危険にさらさずに、できるだけ遠くに行こうとした。

 

だが、遠くとはどこだ?

自分の行き先を決めているのは誰だ?

遠くに行きたいと思わせているのはなんだ?

 

ウニヒピリは、その世界をリアルに、現実感を持って感じている。

 

どうするか。

まずは、ハイセルフに委ねよう。

「なんで?」

どうしてウニヒピリは、こういう幻想を作り出してしまったかを尋ねる。

 

どうしたいのか?

まず、これがウニヒピリが、思いによって作った幻想であることを、ウニヒピリに教える。

誰が教えるかって?それは、ウハネ。

 

「ウニちゃん。今君がいる、その場所は、夢だよ。君がそこにいるのは、しいていうなら、きみが、自分が本来すべき、意志を持って世界を作るという、積極的な創造行為をしてこなかったから。自分は隠れていたい。自分は安全地帯にいたい。でも今ここにいて、楽しんではいけない、でも、この人生で、できるだけ遠くに行かなくてはいけない。そういう思いが作り出した、一つの地獄なのかもしれない。もちろん、きみのウハネは、いろんなことを学んだけど、ウニちゃん、君自身は、あまり喜びを感じなかったよね。その場所から、出てこようね。」

 

恐れであるとか、自信のなさであるとか、そういうものが、密航者として生きるような体験を作り出している。

 

恐れの感覚とか、自信のなさとか、漠然と体にしみついた感覚は、親のウニヒピリが持っていた感覚が、子供の頃に刷り込まれたもの。

すくなくとも、私の場合はそう。

 

この感覚は、まず、頭で考えてもどうにもならない。

それはウニヒピリの中にある感情の記憶だから。

 

観察者になって、その感覚を、自分の意識からひきはがすしかないのだ。

 

 

ふだんはまったく気にとめていなかったのですが、この動画を見たら、散歩の途中に、街のあちこちにあじさいの花が咲いていることに気がつくようになりました。

 

よくみると、あじさいは形も色も様々です。

これから、あじさいが綺麗に咲く季節になりますね。

 

このブログのタイトルは、「赦しと癒しのブログ」です。

赦しと癒しが、このブログのテーマです。

 

テーマとしては、新しさがないかなという気もしたのですが、もしかするとスピ系の人が、一周回って戻ってくる場所かもしれないと思って、とりあえず、このタイトルで書いてみようと思いました。

 

赦しと癒しは、一言で言うと、ロウセルフが一番求めているものです。

多くの人が、ロウセルフを知らないうちに傷つけ、虐待してきています。

それは、スピ系は、なんとかしてエゴから超越しよう思っているからです。

 

「エゴを超えることと、ロウセルフの癒しは両立しない」と思っているわけです。

いやそんなことはない、ということを中心に考えていくということになると思います。

 

さっそく、ロウセルフの話をします。

 

ハワイのカフナ(スピリチュアル・マスター)の考えでは、人間の自己は三つの霊からなっています。

(1)ハイセルフ、(2)ミドルセルフ、(3)ロウセルフの三つです。

 

これはフナという分野でそう言われているのですが、わたしは、それに加え、(4)観察者という第四の自己も働いていると思うので、(5)肉体を加えて、5つくらいの意識をモデルとして想定すると、自分の意識をどう扱ったらいいか、ということがよくわかると思っています。

 

ちなみに、スピ系の中でも、非二元論という、難解な分野に挑戦している人は、特に(1)と(5)だけが実在だと考えているのではないでしょうか。

実はそういう観念の問題ではなく、(3)の問題であると知れば、難しいことを考えなくてもすみます。

 

それぞれの自己は、霊的な体と意識を持っている、というのが、フナの考えの独創的なところです。

これは、もともとカフナが、ネイティブ的な資質を持っており、植物や動物とテレパシーで話をしていたことからきていて、霊的な構造を理解しているからです。

 

わかりやすく言うと、人間の体にも、動物と同じ部分があって、ちょうど、動物と動物が話をするように、人間のロウセルフと、自然のロウセルフが、話をしていたのです。

動物や植物だけでなく、空や海や雲なども、その奥には自然霊という意識あるエネルギー体がいて、また人が作った物にも、人が思った、その念い自体にも、意識があり、意思がある、というのです。

 

つまり、彼らは、人気のない部屋の中に座っていても、現代人のように、冷たく無機質な死物に取り囲まれているわけではなく、暖かくて意思のある生物の中に、その一員としてその場にいる、という感覚を持っているのです。

 

西洋の科学的な、唯物的な世界観の中で生きてきた私たちは、こういう、アニミズム的な発想は、全く持ち合わせていません。

 

ほんとうは、ミドルセルフだけでなく、ハイセルフも、ロウセルフも、全ての部分が統合され、調和されて地上の生活を支えることが望ましいのですが、人によっては、ミドルセルフが優位に立っていたり、ロウセルフが優位に立っていたりすることが多いのです。

 

ちなみに、ハイセルフは、愛と慈悲の、別次元にいるので、ハイセルフの導きにお任せして生活していると、自然に無償の愛の行為ができ、内的に愛に満たされます。

その体験を中心に、祈りにより、地上の生活をデザインすることができます。

 

カフナの教えでは、ハイセルフとつながるには、まずロウセルフの中の、罪や恥の念体、ネガティブな想念エネルギーを消しておく必要があります。

要するに、ロウセルフが「お天道様に顔向けできない」気持ちでいると、いくらミドルセルフが頑張っても、ロウセルフはハイセルフに祈りを取り次いでくれません。

 

これは私の仮説なのですが、ハイセルフとミドルセルフは、自分の巨大な個性ある霊的な魂そのものです。

この魂は目に見えない世界にいて、そのごく一部が、物質の世界である地上に出て、自分の肉体の中に宿っている、と考えます。

 

肉体は、例えていうと、魂の乗り船、自動車、馬のようなものです。

ところが、この例えが誤解を生む要因の一つになっています。

デカルト以来、機械的世界観が蔓延しています。

 

肉体は、肉の素材でできた機械だと思っているのです。

カフナの知識によると、それは間違いです。

くりかえしになりますが、肉体には、身体の形をすっぽりとおおう、言葉を話す霊が宿った、れっきとした「もうひとりの自分」がいるのです。

 

カフナによると、ミドルセルフは、理性がありますが、記憶と感情がありません。

一方、ロウセルフには、記憶と感情や本能がありますが、理性がなく、判断ができません。

ロウセルフは、ちょうど人間の三歳児くらいの振る舞いをするそうで、ミドルセルフが語ることを理解し、テレパシーで話をすることもできます。

 

つまり、独立した意識体なのです。

赦しと癒しは、おそらく、このロウセルフが一番渇望しているものです。

 

なお、フナの本は何冊も出ていますが、私が一番原理的なことが正確に書かれている印象を受けた本は、「ホ・オポノポノ 奇跡の原点 カフナの秘法」「ハワイアン超スピリチユアル カフナの秘法 実践編」で、いずれも、マックス・F・ロング[著]、林陽[訳]です。

 

この本は2分冊になっているので読みやすいですが、別の出版社から出ている「原点ホ・オポノポノー癒しの秘法―」は、同じ内容で、1冊にまとまっています。

 

そのほかのフナ関係の本は、どれもこの本に書かれた内容を踏まえているようですが、著者の解釈が入っているので、参考程度に読んだ方がいいように思います。

 

それと、私がこのブログで書く内容も、私の解釈ですので、あくまで考え方の参考にとどめていただければと思います。

 

みなさまこんにちは。

高橋啓祐と申します。

今日から、しばらく中断していた、ブログをまた始めることにしました。

 

はじめてブログを書いたのは、1990年代の半ばでした。

 

まだ三十代の後半で、昼間会社員をやりながら、夜に上野毛にある、美大の二部に通っていました。

インターネットがまだ新しかった時です。

そのときは、ホームページに自分の課題作品を載せて、もっぱら芸術論を書いていました。

 

大学を卒業したあと、一時中断していたのですが、2007年頃からまたしばらくブログを書いた時期がありました。

 

スピリチュアルの世界で、アセンションという、人類全体に起きる意識の変革が話題になっていて、興味を惹かれたからです。

ブログで「すごいなー」と思う人を探しては、その内容を紹介する、というようなことをしていました。

 

ブログで発信している人は、ヒーラーなどスピリチュアルを職業にしている人ではない、ふつうの人が多くて、全体に今ほど精妙ではなかったのですが、みんな、なんとか自分の意識のレベルをあげようと頑張っていました。

昔からのスピ系の人は、2007年から2009年にかけて、日本人の意識の波動が上昇したことを実感していると思います。

当時は、海外のいい本の翻訳本が、たくさん出版されていました。

 

あのときは、とっても面白かったし、毎日がエキサイティングでした。

そのときに、ブログを通してお世話になった方達には、もちろん一度もお会いしたことはなかったけれども、人知れず一緒に時代を駆け抜けた同志というか、仲間意識のような気持ちがいまでもあります。

 

いまバーチャルの世界で活動されている方は、アセンションへのシナリオの中で、それぞれに与えられた役割をいま現役で果たされているのだろうと思います。

 

で、個人的には、結局、2008年に、人類は意識の変革の最初のターニングポイントをうまく乗り切って、その後2012年を通過し、今わたし(たち)がいる地球は、すでに、遠からず物理次元の地球がアセンションする側のパラレルワールドに移行してきている(にちがいない)と思っています。

 

バシャールは、2013年から2015年頃までに、個別の意識体が、どちらの地球にいくのか、完全に決まってしまうということを言っていました。まあ、よくわかりませんが、地球の波動が上がったことによって、それぞれの自由意志による、原因結果の因果関係が、時間をおかず、すぐに自分の体験に反映されるという意味で、自分の思いを正確に体験できる世界になっているということだと思います。

 

そうなると、エゴレベルで生きている人には、本当に生きづらい世界になっていますが、逆に、スピリチュアルな知識を発信している人にとっては、追い風の時代が来ているのかなと思います。

昔は習得するのが難しかったスピリチュアルな教えも、わかりやすく説明してくれる人が増えましたので、理解のハードルが下がっていると思います。意識を上げた人がたくさん出たので、形態形成場ができたのかもしれません。

十数年前は、全くこうではありませんでした。

 

ところで、スピ系の人はそれぞれ、自分のテーマを持っています。

私自身は、2010年くらいまではずっと「受容性」、つまり赦しができることを目標にしていて、それから2015年くらいまでは、「ハイアーセルフにお任せして生きる」ことを目標にしていました。その後、2016年からは、自分のテーマを、「創造」のほうに変えました。

 

2013年を過ぎてから、しばらく、フェイスブックで、ある祈りのコミュニティに投稿をしていたのですが、2016年からは、全体が「創造」のフェーズに入ったと感じたので、ただ思想を語るときではないと考え、なにか、リアルの世界の方で、活動したいと思いました。

 

ちょうどタイミングよく、2017年に、定年になって会社を辞めたので、それまでの人間関係が全部精算され、環境が激変しました。

それから、自分がやることをずっと模索していたのですが、長年会社員を続けていた時に溜まった思考の澱のようなものがあって、それが掃除されるまでに時間がかかってしまい、結局、いまのところは、あまり形になっていない状況です。

 

まあ、会社を辞めた時に何もなかったことを考えると、一応、編集者として、本を二冊出版できたことは、予想以上の成果かもしれないとは思っています。

 

こういう状況の中で、ブログを書きはじめようと思ったのは、少し余裕が出てきたこともありますが、本を作るスキルができたので、将来的に、リアルの世界で精神世界系の活動家の方とつながることができたらいいな、と思ったことがあります。

それと、令和になって、なにか日本人の思いが変わってきているのかもしれません。

 

個人的には、いま精神世界系で何が必要とされているのかということを、ずっと問題意識として持っていました。

10年前のように、個人が意識を広げるということはもうテーマにはなっていません。

おそらくもう地上側の人間の意識はすでにハイセルフと一体化している人が結構出てきていると思います。

その思いをどうやって創造に繋げるか、というようなところのノウハウが求められているのかな、と思ったりしています。

あるいは、ハイセルフとつながる人をもっと増やす、ということかもしれません。

 

今の時代は、一人一人の愛の温度を上げることよりも、もう十分に愛の温度を上げてきた人が、どうやってこの物理世界を変えていくか、というフェーズに入っていると思います。

そういう意味では、精神世界と、現実世界のハイブリッドな思想、あるいは両者をつなげる実践的なノウハウの発信が求められているかもしれません。

 

私の考え方とか文章はすごくクセがあるので、うまく伝わらないところも多いと思います。

力不足の点はご容赦ください。

 

しばらくしたらまた筆が止まるかもしれませんが、とりあえず、日々考えたことを、週1〜2本、できれば2〜3本、発信していければと思っています。

よろしくお願いします。